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かつて日本は客船大国だった!?

こんにちは。ブログのある生活にまだ慣れませんおのしゅんすけです。

さて。

前回までで客船がライナー(定期船)の時代を超え、クルーズ(の時代)に至るまでの紆余曲折を書きました。今日は日本での客船の移ろいです。


戦前の日本にも「移民」がいた

前回までに書いたように、北太平洋航路では上流階級移民によって客船は発展したと書きました。これは日本でも同じことでした。

日清戦争の後、明治政府によって日本の客船も世界の舞台に躍り出ることとなります。

南米移住の客船や、上流階級向けのサンフランシスコ定期航路などが次々と就航し、日本に客船の時代がやってきます。

(大阪商船のぶえのすあいれす丸。南米移民を多く運びました。)

(日本郵船の秩父丸。北米航路に就航し、太平洋の女王と称され、後に鎌倉丸と改名されます。)

これらの客船は大西洋航路の豪華客船に勝るとも劣らない豪華な設備やサービスを誇っていたそうで、国内の外国人向けのホテルの先をいくものでした。
これらの客船での船旅は当時の有産階級や政治家、文化人のステータスになっていました。

(日本郵船の氷川丸。かの喜劇王チャールズ・チャップリンが日本からの帰国の際に乗った程の評判で、現在は走ってはいませんが横浜の山下公園で乗ることができます。)


しかし、これらの日本の客船の黄金時代を彩った客船は太平洋戦争で病院船や軍艦に改造され、やがて撃沈していきました。


戦後、そして現在へ

戦後になると、かつての客船たちはほとんど残っていませんでしたが、南米移住者は後を絶たず、ぶらじる丸さくら丸といった新しい船がどんどん建造されていきました。

しかし高度経済成長により南米への移住者は激減し、多くの船が移住者向けから旅行者向けに改装を施していきました。

その後は大西洋航路と同様に航空機の発達と更なる移住者の激減、更には日本に寄港する外国の格安の客船によって日本の客船は衰退の一途を辿りました。


しかし、2013年に引退したふじ丸が就航した1989年、平成元年は日本のクルーズ元年と呼ばれ、これをきっかけに日本人向けのサービスを持った客船を次々と展開されクルーズ事業は盛り上がりを見せました。

これらの客船は外国客船との差別化を上手く図りました。例えば、旅館の大風呂を想定した展望浴場や和室が設けられたり、和食のサービスがあったりと日本人の旅行特性と合致させ、新たなクルーズ需要を喚起しました。

このように華々しく幕を開けたクルーズ元年ですが、残念ながら長くは続きませんでした。

1989年の天安門事件はアジアクルーズの意欲を減退させ、1990年の湾岸危機は世界中の観光意欲を奪いました。

何より決定打となったのはバブル崩壊です。

バブル崩壊に伴う日本経済の冷え込みはクルーズ事業の撤退を余儀なくしました。

現在はにっぽん丸飛鳥IIぱしふぃっくびいなすの3隻だけとなってしまいました。


しかし、世界では未だにクルーズ事業は盛り上がり続けています。この分野では日本は遅れていますが海運事業という大きな括りで見れば日本は強豪です。
いずれは日本でも客船がまた盛り上がれば、と思います。それでは。


《扉落描》
紙幣の流通により娯楽が増え始めた。その中でも特に盛り上がりを見せたのが賭博、カジノであった。街には囚人たちによって建てられた本格的なカジノがあり、そのカジノで名を馳せた1人の囚人がいた……

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