京大講演(2)演出の「目的」と、「ズレ」が生む悲劇

何かを演出する、という時には必ず
演出をすることで達成したい目的がある。
「こちらの希望とちがう取り上げられ方をされてしまった」
「不本意な取材依頼に困らされてしまう」という困りごとの裏には、
演出する側(メディア側)と取材される側(研究者側)の
目指す目的のズレが隠れている。

特にテレビ番組など商業映像コンテンツの場合、
その主な目的は「視聴率」だ。
どんなに社会的意義がある内容を取り上げたとしても、
見てもらえなければ事業体としての価値はない。
なので、必然的に視聴者にとっての「面白さ」を追究する姿勢になる。

この面白さ、とは単に笑えるということではなく、
ためになる・考えさせられる・感動するということも含んでいる。

その面白さを実現するために、ディレクターは様々なリサーチをするし、
・どのような切り口で伝えるか
・視聴者の意識が時間軸でどう変化していくように構成を組み立てるか
・他の番組との差別化
など日々懸命に考えているのだ。

また、地上波などの放送フォーマットにおいては、
1つの番組に割ける「尺数」が厳密に決まっている。
0.1秒長くてもダメなので、効率的に情報を入れる必要がある。
インタビューのコメントなどでは1つのカットあたりの時間は、
僕の肌感覚では約10秒程度が限界だと思う。

「正確に」「誤解無く」何かを伝えるにはたくさんの説明をする必要がある、
という意見は確かに間違いではないのだが、
この説明に要する時間感覚のズレが、不本意な取り上げられ方の原因の
ひとつになっていると思う。

こういった前提の共有ができていないから、
「なんだかキャッチーにまとめられたけど本質とは違ってしまった」という
困りごとが発生してしまう。

だけど、これら演出目的が違うということは当然で、
そこを嘆くのはお門違いだ。
大切なのはその「違い」をメディアと取材対象の双方が理解し、
共作できる関係を築けるかどうかだと考えている。

具体的には
・広報が取材者(メディア)の目的を理解しているか
自分の研究(や自分自身)のどこに興味をもって取材依頼をしたのか、
誰に向けたメディアで、何を届けたいのかをきちんと教えてもらう。
番組概要だけFAXで送られてくる、なんてこともあるし、
「〇〇先生に聞いたら紹介していただいたので」という理由のみで
取材者が自分の事をまるで勉強してこないままの時もある。
まあそれは問題外だが、自分についての事前調査がなされているか
以外にも、こちらが相手を知る事も大切だ。
映像メディアでいえば、特にディレクターには「〇〇系が得意」
というカラーがあるので(得意分野が無ければ二流だと僕は思っている)
過去にどんな番組やコンテンツを手がけたのかを聞いておくと良い。

・広報が「取り上げられる目的」を取材者に伝えているか
研究者がメディアに出る事で、どうなってほしいのかを
ある程度明確に伝えておくとよい。
もちろんそれを全部叶えることはないと思うが、
取材者側が切り口を考えるためにもとても重要なことだ。
仮に研究者のキャラクターに焦点が当たっている企画を持ってこられた
としても、研究内容をしっかりと届けたい旨をちゃんと伝えると
「実は知られていない研究者としてのストイックな側面」として
メディア側は新しさを出せるし、研究者側は当初の企画より言いたい事が
伝わりやすいものとして取材を受ける事ができる時もある。

・直接の取材対象(研究者)と広報で上記のすり合わせができているか
番組であれば起承転結が簡潔に書かれた「箱書き」という構成概要や、
仮組のインタビュー台本(優秀なディレクターほど台本をきっちり書きます)
これらをマメにチェックさせてもらう。
このやり取りは短い制作スケジュールでは苦しい時もあるが、
撮影してからではどうにもならないことが多々ある。
構成段階からの共作に取り組めれば、ノーチェックをごり押しされる
事態も回避しやすくなる。

・取材者が目的設定(演出)をするために必要な情報を提供できているか
アカデミアの外にいると、アクセスできない情報がたくさんある。
取材者が自分の情報を持っていない、という原因は単に取材者の怠慢
だけではなくて、必要な情報にたどり着けないケースもある。

これらのことについては、引き続き勉強会などでも考えていきたい。

【補足】
「目的の違い、ズレ」の他にも「前提の見落とし」が起こるケースについても
注意が必要だと思う。

これは僕自身も気をつけていないと忘れてしまうことだが、
論理的に筋道を正しく立てて説明したつもりでも、
そもそも「ロジカルに物事を分解して整理して理解する」という行為自体が、
非常に高度なことであるという前提が抜けてしまう
ということがある。

研究者や研究機関の近くにいると、ロジカルな思考や教養をもとに
物事を理解することは当たり前のように感じてしまう時があるが、
そういった場で呼ばれる「一般社会」からしたら訳がわからないことの方が
多いのではないだろうか。
(例えば「FAB」という単語一つで世界観をイメージできるというのはかなり高度なことではないだろうか)

「一般社会への実装」を目指した研究プロジェクトのタイトルや
「一般社会へ広く伝える」ためのシンポジウムのタイトルなどが、
考え抜かれた単語を組み合わせた結果、”一般”には
まったく伝わらないものになっている。というケースをよく見かける。
それぞれの単語の裏側にある意味やその世界の教養がなければ
理解できないネーミングは、最適とは言えないと思うのだ。
コピーライターって、すごいよね。

我々のようなアカデミアの外の世界の人たちが関わる事で、少しずつ
解消されればいいなと思うし、若手にとってすでにレッドオーシャン化した
コンテンツ業界から見れば、ビジネスとしても可能性があるのではと思う。

【次回】
京大講演(3)「野生の研究シーン」 
商業映像ではない現場で演出を続けるのはシーンを作るため

【目次】
京都大学で講演してきました

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