2020.2.12

2/12

蕎麦とカツ丼。カツ丼は食べきれず持帰りさせてもらった。


どうやってつくられたかわかると嬉しい。それと同じくらい、どうつくったか自分にはわからないのも嬉しいと、感じることができる。


作品や料理、また、目に見えないルールや施策まで対象の範囲は広い

どうつくったかわからないものは、なんとなく、よく均されている。表面が滑らかだったり、引っ掛かりなくするりとした文章だったりする。書き直しを丁寧に消しゴムにかけた紙のような、逡巡した鉛筆の痕跡を感じさせない仕上がりをしている。一概には言えないのだが。じゃあ、どうつくったかよくわかるものはごつごつしているのだろうか。



つくりかたの現れに興味がある。これはHowの話で、なぜつくられたか、という理由、Whyの話ではない。納得がほしいわけではないらしい。
納得のいく理由がある物事は多くないと思っている。人は、自分でもわからない、という行動がほとんどで、理由が意識にのぼっているかどうか怪しい。


なぜこんなことをしたんだ、またはできたのか、と人に問うとしよう。ほとんどの失敗やあるいは成功は「そこまで手が回らなかった」という単純な時間と手間のリソースの問題にぶちあたっており、神がかっており、そこに思想や創意があるわけではなく、いつでも理由のない物語がぼくらの身に降りかかる。


答えのない問い。その無意味さに耐えられないことから、人は因果を辿る。後づけで見いだされることが多く、結果とその理由の関係はこの場合、鶏と卵の問題となる。考えて動いたのか、動いて考えたのか。これは時間を逆転する何ものかを掴もうという議論であり、手に余る。ちょっと直感に反する気がして、ここからは深入りしないほうがいいと思えてくる。


どうして「Why」を問うと、答えは時間が循環するループを描いてしまい前に進まないという図式が得られた。
しかし、どうやって「How」を問うと、時間が単線を描き、一本の軸線を描いてくれる。一方向に過去へと目線を向ければ答えがある。歩いた後には必ず足跡がつづいている。それを素直だと思う。わかることだけをわかろうとしている、のかもしれない。ぼくの信ずる科学一般はわからないことに対しては精々わからないと証明してみせるくらいの力をもっている。


ホームズは、足跡を見ればそれが軍人か医者かをプロファイルする。わかってしまう。なぜここで曲がったのか、歩幅を変えたのか、消えたのか、理由を言い当てワトソンに講釈する。まるで殺害現場の時間を巻き戻したように。ホームズにしかできないこれは、ほとんど魔術であり、技術と呼ぶのは無茶だ。技術とは体系化できた伝達可能な技のことだから。ベネディクト・カンバーバッチ版を見ると、ホームズはごりごりの理系男子として描かれている。行き過ぎた科学は魔法と区別がつかなくなるという説話の査証として覚えていてもらいたい。


魔法のように便利なもので、理由というのはいくらでも正当化できてしまうし、そうして多義的な解釈ができるほうが作品鑑賞の仕方としては豊かでさえあるのだ。解釈次第。というわけだが、この言葉はどこか詐欺めいていて、あまり素直に響かないあたり自分には商才がないと思う。客の納得が得られなければセールスマンとしてはやっていけず、老人に布団を売らなければそいつは露頭に迷うわけで、まあその種の仕事に向いていない。学生をやっている我が身の現状に安堵するほど図太くもなかった。お腹も弱い。

鍋の残り汁、3日前のだが。これで雑炊をつくる。置きっぱなしだったのでよく火を入れる。

悪くなってたみたいだ。すこしお腹にきた。

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