2020.3.12

3/12

たぐい。というポストヒューマニズム誌を読む。表紙にはvol.2 とありまだ若い雑誌となる。まだ冒頭のほうしか読めてないが、ポストヒューマンの定義自体が曖昧なのもあり、生物学の知識がなくても誰でも何かしら興味をそそる項があると思われるのでおすすめしたい。「ポストヒューマン?なんだか新しい」入り口はそれでいいと思われる。素人目には一見して関係ないように思える記事も多く、ジャンルは広い。言語と人間の関係であるとか。
『森の言葉』という論考が気になった。これは、小説や詩といった、表現の制作過程を言語化して追う試みのようであり、その中で、進化論や記号論といった、ちょっとポストヒューマンぽい生物と意識の論理を引き合いに出すことで、言語表現のある姿への読解に迫っている。雰囲気を感じられるよう抜粋しておく。

『「正しさ」は対話の只中にのみあり、当事者であってもその場から離れた途端、「鮮やかさ」は当事者であっても、作家であっても、生き物であってもわからない。〜 当人にも「正しい」解釈は不可能である。しかし、僕の中に別の物語が生じ、それをまた別の読者へと手渡すことで、物語が続いていくのである』
テクストの誤読にまつわる挿話だ。ふつう読む側には、常識的な読解力(この塩梅がむずかしい。作者の意図を汲み切る完璧な読書は存在しないが、とんちきなことを言い出さない加減が読者には求められるから)がもちろん必要であるが、この挿話では、「正しくない解釈」から読者に生まれる新たな創造の種子を、言わばテクストからのn次創作の可能性、テクストがまた別のテクストの呼び声となる連鎖のことを肯定的に語っている。人から人へと物語がつづく尊さ。それは「まちがい」「かんちがい」「すれちがい」から始まるというのだ!であれば、弱さが人間味を醸すなどの人間らしさの所在にかかわる話でもあり、この挿話をポストヒューマンというお題への対応と読むこともできるだろう。これもまた誤読だ。さてしかし、AIやスマッホの予測変換もよくまつがいをしているが、どうだろうか。彼らの内に新たな解釈は生まれうるだろうか。


『「情緒」は「情」の「緒」(いとぐち)と書く。「情」という言葉には独特のニュアンスがある。情が移る、情が湧く、あるいは情が通い合う。情はいともたやすく「私」の手元を離れてしまう。「私(ego)」に固着した「心(mind)」とは違い、それは自在に、自他の壁をすり抜けてゆく。しかも環境の至るところに「情」の動きの契機となる「緒」がある。〜 情も主客を行き来する語彙の一つである。〜 ここで一つの仮説が頭を掠める。そもそも主客を行き来するという表現そのものが二元論を前提としているのかもしれないと。実は「身」や「気」や「情」が飛び交っているところを、まるで写真をおさめるかのように仮想的に静止させた状態が二元論の起源なのかもしれないと』
漢字に個性を見出し、飛び交うという動詞をつけたり、まるで文字を実体として取り扱う表現からは円城塔の文字渦が思い起こされる。

3/11

朝がずいぶんと暖かい。昨晩は強い南風が吹いていた。春が近い。朝食はサンドイッチをつくった。材料がちょうどよくあって手早く作れた。食パンの片面にチーズ、もう片面にバターを塗り、ピクルスの薄切りを敷き詰めてハバネロの細かく切ったのをふりかけたら買い置きのサラダとスペアリブをほぐした身を挟んでみたら、すごくおいしかった。

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