リアル・リタイア・ライフ Ⅱ(番外)
気力や体力が残っているなら、いろいろなことに興味を持って、エネルギッシュにクビを突っ込む姿のほうが、リタイア・ライフにふさわしい。
これが自分の確信というとオーバーだが、思い込みだ。
しかし、そこで悩んでいることが一つある。
それはその活動で知ったり考えたりしたことを、どのようにアウトプットするのか?
ということだ。
そもそも、人が人と人との関係性の中で生き、活動しているということは、
それが知られていること。自分にとっては、人の動きや考え方がわかっていることが前提になる。
会社の中にいれば、良きにつけ悪きにつけ、それらはほぼすべて筒抜けになる。
なぜ、そんなんことまで知っているんだ?
というくらいのスピードと想定がいのところで周知のものになっている。
しかし、リタイア後は逆にそういうことが全くない。
神経や血管や筋肉が切れてしまったように、どこにもどのようにもつながらない。
これはある面でむなしいことだし、何よりもレバレッジが効かない、一人の力の非力さを感じさせることだ。
それだけではない。
高齢者にとっての、プライドあるミッションはただ一つ。
オーバーに言えば社会に、身近なところで言えば技術や悪友や後輩や子供たちに、自らの経験や知見、それに少しだけ自分の思いを乗せて、伝え残すことだと思う。
だって、それ以外に残せるものななど、わずかの金以外(それも、心もとないが)に無いではないか?
いまでさえ、そうだ。
すでに部下や部門や上司、取引先など、何をも動かすポジションにいない身にとって、いくら声を大きくして叫んだところで、その声が届く範囲など数十メートルにすぎないだろう。
だから、どうすれば効果的にアウトプットし、とにかく伝える、残す方法、手段を講じることが大事なのだ。
もちろんコンテンツありきであるのは間違いない。そしてメディア?としては、本や動画などになるのだろう。
だがそのような記録を形にし、必要な人に届かせるには、そのために有効な手段がなければ、それらは十分に思いを残すものにはならない。
おそらく手段は有能で熱意のある仲間だろう。
自分一人では自分が本当に思っていることを、明確にし、表現することなどはできない。自分の頭の中を打診し、刺激し、動かす手段。それがあれば、自分が気が付かなかった自分の思いに遭遇することができる。
それは、やはり同志ともいえる存在なのだろうな?
と今日もつぶやき、メールを打ち、約束を取り付けている。
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