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60歳・定年という、未体験の転機への向かい合い方

60歳代の就労比率が上昇している。
今後、悠々自適の生活が保障されていないことは確かなので、
それは当然だろう。

しかし定年年齢はほとんどの企業で60歳というのが現状だから、
60歳はリタイアという位置づけでは、そもそもない。
簡単に言えば、正規雇用から非正規雇用への転換である。
したがって、この転機は『労働ステージ』という点でいえば、
転職、雇用形態の変更、そして仕事内容の変更であり、
かつ役職についていた人ならば、組織内ポジションからの解放と
うことになるだろう。
そして収入的には大きく減少する。

しかし、この転機に際しては退職金という大きなギフトがある。
その会社に勤務していた時に積み重ねてきた貯金が、
希望することなしに、自動的に廃止になり、自分の、あるいは家族共有の口座に振り込まれるのだ。
これによって、残っていた住宅ローン、車のローンなどの精算にめどをつけることができるので、
大きな借金を抱える生活からは解放されるはずだ。

したがって、ローン返済といった重い荷を背負う役割は格段に軽減される。
子供の学費も同様だ(と願う)。

こう考えると、定年=60歳に迎える儀式は、
労働ステージの継続という面を持ちながら、借金返済といった重荷が軽減され、かなり自由度を広げてくれそうな期待をもったものだということがわかる。

それゆえに、気持ちの切り替えはあいまいになる可能性が高い。
それは生活のためには働く必要がそのまま残るということと、
しかし、雇用形態は非正規になり、待遇の低下と責任の減少と同時に
自分の強み、やりがいとは関係の薄い立場、仕事に取り組むことになるということだ。

これはこれまでに経験した異動、転属といったものよりは、各段に大きく異質な転機だ。
一方で得られる自由な私的な時間の拡大、役割・負担の軽減は、
負担が増えるのが常態だったことを考えれば、異次元の経験だ。
したがって、この転機-トランジションこそ、
今まで以上に正面から取り組む必要がありそうだ。
働くからにはやりがいを感じたいし、小遣いは少なくなっても、得られた時間は有効に使いたい。
特にこの得られた時間の使い方は、特段の目的な趣味などがない人にとっては計画が必要になる。
いままでの人生の中でも、もっと時間が欲しいと思うことはかなり多かったはずだが、
これからはその時間を埋めるのは避けられない仕事ではない。すべて自分の自由なのだ。

深く考えずに、園芸だ、陶芸だ、旅行だなどと、よくある生活に飛びつくと、それはそれでマスターするには時間も金もかかる。
何もしないよりはましのようなものだが、それで本当に満足できるのか?
自分はそれでいいのか、といった問いが欠けるのはもったいない。

いままでのビジネス生活、社会生活で経験したこと、考えたこと。
その結果、こうなればいい社会になるはずだ、といったようなことが、
その選択に含まれているかはかなり重要なはずだ。
たいしたことでも高尚なことでもないかもしれないが、
それが、自分の生きてきたことの成果でもあるからだ。

会社を辞めることが、そうした社会人としての思い、果実の放棄とイコールになっていないか?
もちろん、それが家庭菜園や旅行や映画鑑賞という人もいるだろう。
それはそれでもちろん楽しいし、のめり込む価値があると思う。

ライフロールという人生の役割を描く図がある。
これは、子供、学生、夫・妻、親、管理職・・・といった、その時期その時期の人生の役割をしめす。
同じように、その時々に取り組んだこと、願ったこと、成果を上げたこと、などを書き出してみるといい。
自分の最後のステージで、自分が描く生活の彩が、多くのひとと似通ったものになるのだろうか?

それだけは考えていたほうがよさそうだ。

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