キョンにも折木奉太郎にもなれなかった俺たちは

9月第3週。夏がゆっくりとまどろみ始め、教室内に漂っていた長期休みの余韻も希釈されきったあの時間、俺は窓際にいなかった。
窓際にはあいつがいた。いつも気だるそうな顔をして、でもけっこう友達が多くて、やる時はやるオトコだよなんて周囲から信頼されているあいつがそこに座っていた。

あいつは173cmであった。平均身長を越しているくせに背が低い側のような面をして、ひ弱なふりが上手かった。
あいつは少しだけ上等な黒いボクサーブリーフを履いていた。使っている物もいちいち小綺麗で、無印良品を好む母親の顔が透けて見えた。
あいつの書く文字は色が薄かった。はね方に癖があった。
あいつは洋楽を好んだ。流行りのポップスには目もくれなかった。

あの時間、俺は窓際にはいなかった。窓際の席にはいつもそういう主人公面したスマート野郎がアンニュイな顔をして座っていたので、俺は一番廊下側の列の、後ろから三番目の席に座っていた。
俺には友達も少なく、野暮ったいパンツを履き、休み時間には分厚くて挿絵の多い小説を一人読んでいた。
感受性だけが自分に残された唯一の武器であると信じ、国語の授業だけは背筋をしゃんとして臨んだ。


ある日の朝、あいつは机に突っ伏して寝ていた。
おおかた夜更かしでもしたのだ。そうして、なぜ彼がそれをしたか俺には想像がついた。
カタンをやっていたのである。
実際にあいつがカタンをやっていて眠れなかったかどうかは知らない。しかしああいう憎たらしい人間には、あまり一般的ではないボードゲームを好む父親か兄貴がいる。いるに決まっている。俺はカタンを知らない。当然、俺の父親もだ。カタンが何人用のゲームなのかすら知らない。あいつはそういう俺の知らないことをして俺よりも上に立とうとしている。なんと嫌味な奴なのだろう。
しかし、俺はそれに対抗する術を知っている。

萌え萌え二次元ソングの傾聴である。

耳元で大音量の萌え萌えソングを連続して流すことで脳を痺れさせる、これが一番“効く”。あいつがカタンならばこっちはデカダンである。
そも、世にデカダンと言われる行為の目的はまったくもって単純で、それは脳を痺れさせることだ。強烈な刺激で脳を痺れさせて、なんにも分からなくする。その目的さえ分かっていれば、何もお酒をたくさん飲んだり薬を使ったりして危ない目にあうことはない。ただ可愛らしい声とちょっとトんだ歌詞に浸る時間を作ればそれで済む。こうした退廃によって、俺はあいつよりも“疲れる”ことができる。疲れているのはかっこいい。元気いっぱいにはしゃいでいる同級生たちよりもよほど。頭が回らなくてぼーっとしているなんていうのは、まるで貴族の所作だ。
イヤホンをつけ、俺も同じように机に突っ伏した姿勢になった時、あいつがクラスメイトに話しかけられているのが横目に見えた。それでいいと思った。

数十分後、耳がひりつき頭がふわふわしてきた頃に教師が入ってきた。イヤホンを取り、後方の黒板で一限の内容を確認する。現国と書いてあったので、俺は一瞬わっと胸が躍った。今日の授業では、前回提出した山月記の感想文をいくつか読み上げると言っていたからだ。
俺のが選ばれると思った。むしろ、書いている最中も、選ばれて大変に褒められるに違いないと思いながら書いたのだった。

『――作中になんども登場する''月''というモチーフは、李徴の消えゆく人間性の比喩であると同時に彼が焦がれて届くことの無かった芸術の高みというものの象徴でもあり……』

こんなようなことをレポート用紙びっしり。びっくりしただろうな。17歳でこれだけ読み取れたらたいしたもんだ。しかもあの教師はいつだったか、俺がかっこいい装丁のライトノベルを読んでいたら、漫画もいいけど小説も読めよォ、なんてトンチンカンなことを言ってきたことがある。
どうだい、見返してやった。そんな気持ちで自分の感想が読み上げられるのを待っていたら、では次で最後ォといって、あいつの名前が読み上げられた。

『綺麗な文章だと思った。きっと作者は、虎という動物を本当に美しいものだと思いながら書いたのだと思う』

それを聞いて俺は、まず、ポカーンとした。そうして次にちょっとはにかんで、まったく気にしてませんみたいな風にノートを眺めてみたりした。そうしていたらそのうちに怒ってるんだか悲しいんだか分からないような気持ちがジワジワ湧き上がって、いつの間にか、本当に泣きうになっていた。いっそ拳を振り上げて、大声で、納得出来ない!と叫ぼうかと思ったほどであった。
納得出来ない。何が。選ばれなかったことじゃない。どうしてお前ばっかり歪まずに済んでいるのか、それが納得出来なかった。
お前は歪んでくれない。いつも澄ました顔をして、気持ち悪くなってくれない。俺がこんなに地団駄を踏んでいる間にも、お前は気取った顔で窓の外を眺めている。俺とお前で何が違う。なんで俺ばかりがお前のことを見ている。
お前がもっとガキなら良かった。シュッとした顔立ちも小綺麗な持ち物もそのままでいいから、もっと子供みたいに笑ってくれれば、俺はきっとこんなふうにならずに済んだ。それなのにお前はもうとっくに大人になったような態度で、お世辞の感想文で大昔に死んだ作者にうすく微笑んでみたりする。俺にはそれが受け入れられない。
じゃあどうすればいいんだ。お前がそんなんで、俺ばかりお前のことを見ていて。美しいわけないだろうが。虎は野蛮で汚い動物なんだよ。自分でもそれが分かってるから月ばかり見上げて、いつか認めてもらえたらって願っていたんじゃないか。
もうダメだ。殺す。俺はあいつを殺さなくてはならぬ。何もされていなくとも、何もされなかったからこそ。殺さねば。これは総意であった。世に数多いるワナビーの総意であった。お前が整然を良しとするなら俺たちは無稽を愛する。お前が暑苦しさを厭うなら俺たちはそれを厭わぬ。主人公になれなかった俺たちは、キョンにも折木奉太郎にもなれなかった俺たちは、だからこそお前に憧れ、否定しなければならなかった。


その日の晩御飯は、チキンラーメンの上に野菜炒めを乗っけたものだった。
母が疲れている時に手抜きと称して作ってくれるそれが俺は大好きだったが、その時にも(あいつはこんな塩辛いものを食べるかしら)と思った。

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