モノを持たないセイカツ
『男とは闘うために神が創り出したものだ』
NHK大河ドラマ「利家とまつ」で、
利家が長男の初陣に際して、
そのひ弱さを嘆いて発した言葉だ。
バテレンの教えで、人を殺めることの
無意味さを知り、傾倒していく若武者の
苦悩を描き出そうとしている。
実際の利長も同様にやさしい性格で、
一説には関ヶ原の合戦によって豊臣側を
裏切れずに自殺したともいわれている。
男とは、かくも厳しい現実を生き抜かな
ければならないのか。現代でいえば、
さしずめビジネスでの競争に打ち勝たねば
ならない精神的な闘いに様相を変えている
ようにも思える。
命のやり取りではないのだが、
やるかやられるかの世界がどんどん内面に
向かっていく。
表面は穏やかな成熟した人間関係だが、
内面ではさまざまな策略が蠢いている。
私はどうも、こういう策略が苦手だ。
彼らのいう大義は、なぜかどれも同じで、
自分の考えている世界にしたい、とつねに
願っているかのうようだ。
もともと資本主義社会なのだから、
差別化を図りながら、市場に優位な商品や
サービスを提供することが、社会活動を
充実させる方法なのかもしれない。
それが私たちの生活を豊かにしてきたか
といえば、そんなものは数えるほどしかない。
つまりこの世の中は、余分なものを生産する
ことで成り立っている社会だ。共有したり、
合理化したりすることでムダを省けば、
必ずそこには会社としての死が待っている。
産めよ増やせよと昨年実績の10%以上が目標、
というより至上命題とされ、死に物狂いで
働いた団塊の世代。こんなに働いたから、
車や家もローンで買えたと喜ぶ姿が痛々しい。
すでにこの社会のしくみを知っていた人間は、
働かずにお金が入ってくることに気付いて
いただろう。情報が公開されなかったことで
“士農工商”システムが確実にできあがった。
では私たちの世代はどうするべきか。
いまはまだ過渡期にあり、既存のしくみに
必死に食らいついていく人たちも多い。
私よりも年下ではあるが、先輩世代の真似を
しながら夢を追っている人間も少なくない。
そんななかで私はある決断をした。
積極的にモノを所有しない生活だ。
モノが欲しくなれば、誰かから富を奪おうと
するだろう。それは盗むということではなく、
方法は合理的だが“ムダ”を創出する。
欲が出るから人を羨む。人を羨むから憎しみが
生まれる。その循環を自分で断ち切る方法を
考えた結果、導き出した答えだ。
この誰も勝つことのないレースから抜け出し、
自由に、自分らしく生きていきたい。それは
利家の嫡男・利長が苦悩したものに似て、
自分の弱さを認め、自分らしく生きる道を
選ぼうとする行為に似ていると思う。
幸運にも、オーナー社長の息子に生まれず、
自ら命を殺めることは避けられた。
これから、男は闘うことを強いられた性で
あることを強要する人たちや社会と闘うこと
が自分の仕事だと認識している。
あるときは利用されることもあるだろう。
私もここから完全に逃げ出すには、あまり
にも多くのことを知りすぎた気がするから。
ただし、妻や子ども、親族ともあらゆる
価値観を分かち合い、食うためには、
やはり働かねばならない。
その現実の中で折り合いをつけることが
自分に課せられた課題だと思っている。
* * *
当時の自分が追い込まれていた状況が蘇った。
子どもたちがどんどん成長し、自分の理想と
現在の現実が交錯して、逃げたい、
でも逃げられないという状況だったことは、
容易に想像できる。
ここで明確な答えが出せるはずもなく、
家族から求められれば、否応なく、
現実に向き合うしかなかったと思う。
この頃、クライアント先からの帰り途で、
「ああ、宝くじ当たらないかなあ」と、
買ってもいない宝くじが当たることを
期待していた自分を思い出した。
その時から考えれば、今はまるで夢のよう。
砂漠を超えた先にしか、オアシスはないと
理解するまでに時間がかかった。
ただ一つだけ貫いたのは、
できるだけモノを持たない生活はしてきた
つもりだった。
子どもが何か欲しいと言った時も、
どうしてそれが必要なのか、
理由を言わせていたような気がする。
それは、あまりにも可哀想だったかな。
だから、もし孫ができたら、
プレゼント漬けにして、
わがままにしてやりたい。
それが現在の私の密かな企みである。
2002/05/27Mon
#あの頃のジブン |15