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教員の理不尽な指導をもたらす背景は、懲戒権にある⑤

 前回、過剰な指導とそのペナルティとしての懲戒が、子どもの命を追い詰める現状があり、それを指導死と名付けたと書きました。今回は、そのような危険性のある指導がなぜ行われてしまうのかを見ていきます。


手続きなしに行使できる懲戒権は
ブレーキの壊れたクルマ

 私は、「事実行為としての懲戒」を教員が自分の判断で行うことが、理不尽な指導を生み出す原因だと考えています。
 「事実行為としての懲戒」の範囲があいまいであることについてはすでに述べました。

 文科省は、①放課後等に教室に残留させる 、②授業中、教室内に起立させる、③学習課題や清掃活動を課す、④学校当番を多く割り当てる、⑤立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる、⑥練習に遅刻した生徒を試合に出さずに見学させる、などを例示して、こうしたものは認められるとしているのですけれども、これは懲戒の範囲を「限定」したものとはいえません。


教員の理不尽な指導をもたらす背景は、懲戒権にある①

 これは、生徒指導提要(改訂版)に「懲戒は、学校教育法第11 条に規定されていますが、その手続きについて法令上の規定はありません」と書かれていることからも明らかです。手続きがないということは、校長などの管理職に許可を得ることなく,他の教員に相談することもなく、自分が必要と思ったときに懲戒権を行使できることを意味しています。
 教員個人の考え、あるいは考えのなさ、ときには認知のゆがみなどがダイレクトに懲戒行為に反映され、自由自在に行使されてしまうことすらあり得るのです。しかも、懲戒権が法として定められているために、その行為は法的に正しいとして擁護されます。例え保護者が、我が子の死は不当な指導・懲戒によるものだとして裁判に持ち込んだとしても、「教育行為」であるから違法ではないと判断される可能性が極めて高いのです。
 児童虐待防止法、パワハラ防止法、いじめ防止対策推進法の各法が禁じる行為を、教員が児童生徒に対して行っている現実があり、報道されているだけでもその数は少なくないのです。被害を受けた子どもたちは、学校に行くことがつらくなったり、いけなくなったり、精神疾患に陥ったり、社会生活に影響を及ぼす程の人間不信や社会不信,そして時には自らの命を絶つことすらあります。
 教員のこうした行為を明確に禁じる法的な仕組みが存在しない、あるいは機能していないのが現実です。子どもの学びや成長のために行われる教育によって、子どもの命が脅かされ、あるいは子どもたちが追い詰められ学校に行けなくなっているのです。

懲戒権の行使には
厳密な運用規定や手続きが求められる

 ここからは、懲戒権を撤廃する、あるいは厳密な運用規定や手続きが求められるという話を進めます。まず引用から始めます。

 懲戒は、弱味をもった一部の生徒に加えられる強制で、密室で行われ、闇に葬られやすい。生徒の人権が、秘かに侵害されやすい領域なのである。しかも、侵害は教育の名によって行われる。教育の名で権力が、生活指導の名で強制が、そして時には教育愛の名で報復が加えられる。生徒懲戒にはきわめて陰湿な世界がかくされている。

坂本秀夫『生徒懲戒の研究』5頁、学陽書房、1982年

 坂本秀夫さんの文章です。私がこの文章に触れたのは、『教育と文化』に掲載された弁護士の中川明さんの「体罰と懲戒」という論考での引用です。
 その論考で、中川さんはこう書いています。

懲戒は、制裁として強制や非難を含み、不利益措置としての性格を有している以上、それが科される前には、対象たる生徒に対して、その問題行動ないし非違行動などについて、親を含む第三者(弁護士も含む) の立会いの下で、十分な告知と聴問・弁明の機会を与えるとともに、その事情聴取の結果を記録にとどめ、それらの記録を本人と親を含む一定の者に開示する、という手続的な保障が最低限の法的措置としてとられるべきである。教育的懲戒というのであれば、なおさら、教育的な検証が後に可能となるような丁寧な取扱いが要求されるべきである。もとより、こうした手続的な保障の履践は、「懲戒」の段階に移行してはじめて求められるのではなく、連続しておりその境目を画することも困難な「生活指導」の段階でも同様に履践されなければならない。

中川明「教員の懲戒権について—教育と懲戒についての省察・序説—」 『教育と文化』8〜21頁

 明治33年の小学校令に定められた懲戒権が、その妥当性を検証されることなく、令和の今まで引き継がれてきました。懲戒は、子どもに対する強制や非難を伴い、不利益を与える性格を備えています。中川さんは、もし懲戒権を行使するなら、親、場合によっては弁護士なども含めた第三者の立会いのもとで、対象となる児童生徒に対して、問題行動などについて十分に説明し、意見表明の機会を与えながら、聞き取りの結果も記録するよう求めています。そして、その記録を本人や親を含む一定の者に開示する手続きによって検証可能性を担保するべきだ、そうした保障が最低限の法的措置としてとられるべきではないかとしています。
 さらに、教育的懲戒というのであればなおさら、あとから教育的な効果性を検証可能にする取り扱いが求められるはずであり、こうした手続き的な保障は懲戒の段階になってからではなく、生活指導の段階でも、同様に行われなければならないと締めくくっています。

懲戒権がなければ学校が
成り立たないというのはただの神話

 懲戒は、これほど限定的に用いられるべきものです。「事実行為としての懲戒」を教員の特権のように考えたり、懲戒権なしでは教育は成立しないと考えるのは、控えめに言って正しい判断だとは思えません。教育的配慮とは相いれないものともいえます。懲戒権は、子どもの最善の利益の観点からとらえ直す必要があります。その結果は、懲戒権の撤廃、あるいは懲戒権行使に関する厳密な歯止め規定へと結びつくはずです。
 百歩譲ったとしても、「事実行為としての懲戒」については、ただちに見直す必要があるはずです。
 不登校現象は学校に対するフィードバックではないかとこのシリーズ3回目で書きました。不登校の背景にも、子どもの自殺の背景にも、懲戒権の存在があるのは確かです。見直しは待ったなし、制度改革に10年20年をかけている場合ではありません。一定の歯止めは今すぐにでも必要であり、そういった声を盛り上げていかなければならないと思っています。
 
End.

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