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みそしる映画批評:「首」~たけしのアンサーソング~


歴史映画としての「首」について


この「首」。
歴史映画だと思って観るのはNG!
歴史映画ではなく、たけし映画です。

つまり北野武にせよビートたけしにせよ、何らか「たけし」に思い入れがない人が見ても、全く面白くないでしょう。
何故なら歴史映画としては無茶苦茶だからです。

まず、家臣を気ままに殴ったり殺したりする、「本能寺どころか桶狭間以前に焼かれてるだろ」としか思えない信長。
この信長が「息子ではなく一番デキる家来に後を継がせる」って発言して、みんながそれを信じてこのクソ信長に耐えて頑張ってきたけれど、途中でそれがウソだってバレて、光秀・秀吉あたりが激怒した結果、本能寺の変が起きましたって話なんですね。

もうこの時点で「?」じゃないですか。

あんな跡目争いで骨肉の争いを演じる戦国時代で、「息子じゃなくてお前らに譲るわ」とか言われてもウソすぎて誰も信じないでしょ。 言ったとしても「殿、お戯れはおやめください!」ってみんな止めますよ。 それをみんなガチで信じて後から「裏切られた!」とか言ってる時点で「この映画に出てくる奴はみんなバカです!」って宣言したようなものです。
登場人物、全員愚人。

「歴史を知りすぎたがゆえの新解釈」かと好意的に見ようとしても、武田を滅ぼす時の戦、描写が明らかに「長篠」なんですよね。
武田騎馬軍が柵越しに鉄砲撃たれて負けるやつ。
それ武田滅ぶ7年前だぜ!

それすらギャグと思うのはさすがに穿ちすぎだと思うので、「単に歴史考証が適当」なんでしょう。
たけし本人も取材に対して、「戦国武将なんてろくなもんじゃない。悪いことしてのし上がってきた奴ら」と、言っているように、歴史にも歴史の登場人物にもまるでリスペクトを感じない作品です。

だから歴史映画としては駄作としか言いようがない。
クレヨンしんちゃんの「アッパレ! 戦国大合戦」とか観た方が良いと思う。

アンサーソングとしての「首」について

では、たけし映画としてはどうなのか。
個人的には「故・大島渚へのアンサーソング」だと思って観ました。

たけしを映画に急接近させたのはやはり、大島渚「戦場のメリークリスマス」でしょう。「メリークリスマス、ミスターローレンス!」のハラ軍曹として有名ですね。
捕虜収容所での日本軍人と英国人捕虜との一種…どころか、もろに同性愛的な感情の交流を描いた作品で、たけしが「監督を始めるきっかけ」と、後に語った作品です。

もっともたけし自身は撮影直後のラジオで坂本龍一と共に、「わからない映画」「オカマ大会」といった発言をしていたらしく、まあたけしのことなのでこれがどこまで本気かわかりませんが、いったん「たけしは男性同士の同性愛的な交流にそこまで肯定的ではない」という前提で話を進めます。

たけしはこの後、大島渚の遺作となった「御法度」でも土方歳三として主演していますね。

これは新選組が舞台の作品なのですが、オタサーの姫みたいな美少年が入ってきて、隊士たちが取り合って揉めるんで最終的には粛清するというお話で、まあ簡単に言うと同性愛、「衆道」の話ですね。

たけし演じる土方歳三は「自分にはその気がない」と、自身の衆道趣味について度々否定するんですが、最終的に武田真治演じる沖田から、「土方が近藤を慕う気持ち、すなわち男同士の信義というのも、一種の衆道なのではないか」と指摘され、激昂します。
激昂するというのはある種の図星だったからに外ならず。

つまり戦メリも御法度も、陳腐な言い方をすれば、一種の閉鎖空間で生まれる多様なホモソーシャル的関係について描いた作品なわけですね。

そしてそういう作品を経て、たけしが撮ったこの「首」。
自分には「オレにはやっぱわかんなかったよ大島監督」という一種のアンサーソングに聞こえました。

何故ならもう、しつこいぐらい男同士の好いた惚れたが出てきます。
それが決して美しい描写ではない。
心の機微を感じ取ってカメラが動いたりしないし、葉っぱが落ちたりもしない。

まず信長と光秀と荒木村重。
本能寺の変に至るもう一つの軸が、この三者の三角関係です。

横暴きわまる信長に対して、光秀も村重も愛憎半ばする感情を抱いています。
村重は気に入られたくて必死に媚びていますが、やがて裏切られたと思って謀反を起こす。
光秀は村重とデキていて謀反失敗後に匿うぐらいで、信長に対しては単なる面従腹背に見えつつ、蘭丸が信長に抱かれているのを見た後には「蘭丸、死ねぇ!」と、別の人間を身代わりに斬ったりする。やがて光秀も信長に(跡継ぎの件で)裏切られたと知って謀反を起こす。

こうした関係性をたけし演じる秀吉は、「私は出が百姓なので武士同士の惚れたどうこうがよくわかりません」って突っぱねるんですね。

抱かれて喜ぶ蘭丸を「お前も武士のたしなみがわかってきた」と、信長が褒めたようにこの世界ではお互い好いた惚れたをやってこそ「武士」なのに、秀吉にはそれが理解できない。
土方のように内心は…ということも一切ない。
本当にわからない。

そして、もう一つの武士の象徴がタイトルにもなった「首」です。

武士になりたいと願う百姓の茂助が敵の首を狙うように、信長を討った光秀が執拗に「信長の首を探せ!」と、命じるように。
首が権力の象徴とされている中、ラスト、秀吉は「死んだってことさえわかったら、首なんてどうだっていいんだよ!」と、汚れて誰かわからない首(実際は光秀の首)を蹴飛ばします。

これこそ大島渚へのアンサーソングそのものに感じます。

御法度では、平隊士同士の恋愛・性的関係のみならず、土方と近藤の信頼関係も一種の同性愛とみなしていました。
戦メリでも性的行為が発覚するのは軍属と捕虜といった低い立場のもので、坂本龍一のヨノイ大尉とセリアズ少佐は実質、精神的交流にとどまっています。

これを鑑みるに大島渚は、「下の者は性愛でしか繋がれない」「高みにある人間は精神で繋がる」という感覚、テーマを持っていたように感じます。

そんな大島渚の撮影当時よりはるかに高齢となった70代後半のたけしが、「年を取ればわかるかと思ったけどそうじゃなかった」と、ばかりに満を持して蹴り上げたのがこの「首」ではないでしょうか。

「武士」である信長も光秀も性愛で判断を曇らせてばっかですし、「百姓上がり」の秀吉に関しては誰とも精神で繋がっていない。
そしてその「武士」の首を「百姓」が蹴り上げる。
まるで「そんな高みにいる人間なんていないよ」と、豪語するかのように。

ただその一方で、光秀も最期は村重との関係を断って戦に臨み、負けた後は自ら首を斬り、相手の手柄にしてやろうという潔さを見せて去っていきます。

この秀吉がたけし、光秀が大島渚だと考えれば、

「オレにはわからないし蹴るしかできなかったけど、アンタのことも見事だとは思っているよ」

そんなたけしからの優しい歌詞のように思えてきます。


…という風に、自分なりのたけし観を持って観れる人には楽しめる作品なのではないでしょうか。

たけしに興味ない、ただの歴史好きの人、絶対に観ちゃダメ!
おっさん同士のキスシーンに悶絶するだけだから!

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