日本一マズい定食屋の記憶

 通っていた大学の近所に、クソマズい定食屋があった。
 おそらく日本一マズい定食屋だったと思う。
 それ以後の人生で、あれを超える定食屋に出会ったことがない。

 店の親父は「銀座の料亭出身」だと豪語していたそうだが、誰も信じていなかった。
 まず味噌汁に出汁が入っていなかった。
 出汁がマズいとかではなく、そもそも入っていないのだ。
 出汁を使わない料亭があるのか?

 その他にも、堅焼きそばを頼めば普通、針金のように細いパリパリの麺が出てくるはずが、讃岐うどんのような太さの麺がバキバキの堅さで出てきて、噛むたびに歯が折れるような思いをしたし、味は劣化版ベビースターラーメンだった。

 誰の悪口も言ったことがないような心優しき友人を連れて行ったら、焼肉定食を食べて、「米が臭い」と、泣いていた。大学4年間、最初で最後の悪口だった。

 友人一同でコーヒーを頼んだ時は、ミルクを入れたら何故かコーヒーの表面でミルクがコポコポと溶岩のように動いて、その時点で嫌な予感はしたが、やはり全員が10分後には気持ち悪くなり、慌てて近くの公衆便所に駆け込んだ。

 何ならお冷やの水すらマズかった。もうダメだ。

 第一、親父さんがたまに賄いらしきものを食べているのを見かけたが、明らかに生の豚肉に醤油をかけただけのものを、さらにご飯にかけて食べていた。
 料亭でそんなものを教えられるはずがないし、マジで危険だからやめた方がいいと思った。

 そうした負の逸話に事欠かない店だったのに、何故ボクらが何度も行っていたか。

 ただ唯一、玉子チャーハンだけはまだマシで食えるレベルだったのだ。
 そしてそれなりのボリューム+味噌汁付きにも関わらず、200円と激安だったからだ。

 金のない大学生が通うには十分だった。
 学食のカレー(230円)と、この玉子チャーハンが生命線だった。

 ちなみに玉子チャーハンがマシというのも、自分をごまかすための言い訳だったのかもしれない。
 噂によると過去、この玉子チャーハンを食べた客があまりにもマズいと言って暴れ、警察騒ぎになったらしい。たとえ200円でも許せなかったのだろう。

 駆けつけてきた警官は試しに玉子チャーハンを口にして、「この味じゃなあ…」と、仲裁を諦めたそうだ。

 本当かウソかわからないし、多分ウソだと思うのだけど、実際に起きたら同じことになっただろう。だからこれは本当のことと言っていい。


 大学を卒業してから数年後、一度だけその店に行った。
 以前は「これから廃墟になります」感たっぷりの良く言えばレトロ、悪く言えばボロい外観だったのに、しばらく来ないうちに改装したらしく、小ぎれいなカウンター席だけの店となっていた。
 店の大きさも半分になっていた。

「親父さん、久しぶりに来たけど店変わったね」
 
 気になって、ついカウンターの中にいる親父さんに声をかけた。
 考えれば、在学中ほとんど話したこともなかったので、人間同士としては初対面に近い。
 けれど顔は覚えていたらしく、

「おお~」

 と、半分は思い出したような顔をして、親父さんは答えてくれた。

「おう、俺がねぇ、病気しちゃって倒れちゃったからね。店を小さくして何とかやってってるのよ」

 店の半分は人に貸したらしい。

「ええ~、もう大丈夫なんですか?」

 そう聞くと、

「俺は大丈夫なんだけどねぇ、俺が病気してる間に奥さんまで病気になってねぇ、そっちはねぇ…」

 親父さんは声を詰まらせた。
 その先は聞くまでもなかった。
 『生の豚肉なんて食べてるから…』とか不謹慎なツッコミを入れる余裕もなかった。

「親父さん、長生きしてよ…」

 と、言うと、

「うん…」

 親父は小さくうなずいた。泣いているようだった。
 こちらも泣きそうになりながら、相変わらずマズいチャーハンを口に運んだ。


 この話もすでに10年前のことだし、今はもう跡形もなくなっている。
 けれど多分、あの堅焼きそばの味だけは生涯、忘れないと思う。
 (チャーハンよりマズかったから)

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