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マラドーナを最も愛した日本人ジャーナリストについて

マラドーナの死去に伴い、真っ先に頭に浮かんだのは、ジャンルカ・トト・富樫こと、富樫洋一さんのことでした。
 
富樫さんは、日本サッカー黎明期から活躍されたサッカージャーナリストであり、おれがサッカーメディアで働くきっかけとなった人です。
 
富樫さんとの最初の出会いは、1997年の終わり頃だったと思います。新子安にあるマリノスの人口芝グラウンドで、「ピンボケズ」というサッカーメディア関係者を中心に構成されたチームに、カメラマンの六川則夫さんの紹介で入れてもらい、そこで出会ったのが富樫さんでした。
 
富樫さんと初めて出会った時のことは、今でも鮮明に覚えていて、六川さんが紹介してくれた時に、笑顔で右手を差し出しながら、「どうも、ジャンルカ富樫です。よろしくね」と言ってくれました。
 
その翌年のフランスW杯でも、現地で偶然出会い、一緒に食事を取らせてもらいました。ヨーロッパサッカーの魅力を熱く語る富樫さんに、憧れに近い気持ちを抱いたことを覚えています。
 
そしてフランスから帰国直後の7月に、富樫さんが編集長としてセリエAの専門誌を立ち上げる、という話を聞き、おれは新卒で入った会社を辞めて、まだ立ち上げてもないその雑誌の編集部に加わることを即座に決断したのです。富樫さんと一緒に、サッカーの魅力を伝える雑誌を作りたい。その一心でした。
 
ちなみに、セリエA専門誌を立ち上げようと決めたのは、まだ中田英寿のペルージャ移籍が公になる前のことなので、今考えても、むちゃくちゃ無謀なチャレンジだったと思います。
 
ただ、その年の7月24日(おれの誕生日です)に、中田英寿がセリエAへ挑戦する、という“神風”が吹き、セリエA専門誌『CALCIO2002』は、すぐに休刊することなく、長きに渡って定期刊行を続けることとなりました(今でも、不定期で刊行されています)。おれが最初に編集長を務めることになったのも、この『CALCIO2002』です。富樫さんとのやりとり含めて、本当に多くの思い出があります。
 
富樫さんが亡くなったのは、2006年の2月7日、アフリカネイションズカップを取材中のエジプト・カイロにて、でした。睡眠中の呼吸困難が原因で急死された富樫さんの死を悼み、アフリカサッカー連盟が、ネイションズカップの決勝戦にて、キックオフ前にスタジアム全体で黙とうを捧げてくれたくらい、海外でも知られたジャーナリストでした。
 
その富樫さんがイタリア・セリエAにハマるきっかけになったのが、マラドーナです。1980年代、マラドーナのプレーに魅了された富樫さんは、当時としては信じられないほどの行動力で、ナポリのマラドーナを現地取材されていました。1988年には、『マラドーナのスーパーサッカー』(朝日出版社刊/現在は絶版)という、マラドーナのインタビュー及びナポリ時代のマラドーナのプレー写真で構成された本も書いています。
 
マラドーナについて語る富樫さんは、いつも本当に楽しそうで、その熱量に冒されたおれは、セリエA至上主義になり、80回以上もイタリアに飛んでセリエAの試合を取材し、ついには、セリエA中継の解説者を務めるまでになりました(ちなみに、プロ選手のキャリアもないおれが、長年に渡り、セリエAの解説者をやらせてもらったのも、富樫さんを始めとした先人たちのおかげです)。富樫さんのおかげで、おれのサッカーメディア人としての人生は、本当に豊かなものになりました。改めて、感謝します。
 
Twitterでも宇都宮徹壱さんが書かれていましたが、富樫さんが天国でマラドーナと再会できていることを切に願います。

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