『紋白蝶厨子』(1970) 狛江柊三作

 タマムシの羽で飾られた厨子は玉虫厨子、モンシロチョウの羽で飾られた厨子は紋白蝶厨子。すっきりした理論であり特に疑問を抱くようなところはない。疑問があるとすれば、そもそもそんなものが実在するのかということであるが、これは実際に存在する。美術作品――ということになろうが、大して美しいものでもなく、全体的にぼんやりとした色合いと質感で、むしろ漠然とした嫌悪……虫という存在そのものに対する嫌悪と、このようなもののために生き物のいのちを消費することへの嫌悪……を感じさせるものになっている。モンシロチョウ自体がぱっと見に美しい蝶ではないから当然なのだが、これは実は意図的にそう作られているものなのである。
 作者の狛江柊三氏は「玉虫厨子においては稀少性と美しさとによってぼかされている、芸術のために生命を奪うということの意味を、ごくありふれた見向きもされない蝶であるモンシロチョウを使うことによって再考する」というコンセプトを示している。
 なるほど、我々が玉虫厨子を見て美しいと感じるのはタマムシそのものが大変美しい羽を持つ昆虫だからであり、その羽を集めて飾られた厨子の、光にきらめき様々な色彩を見せる様子には心を惹かれずにはいられないからだ。しかし、それを作り出すために一個のいのちが消費されているという点は、紋白蝶厨子と何ら変わりはないのである。綺麗だからあまり気にしていないその事実が、綺麗でもなんでもない紋白蝶厨子を前にすることによって明らかになる……という、そういう考えである。そのコンセプト自体は分かりやすいものであり、実際多くの人に美と生命について考えさせる契機をもたらしたと思われる。
 しかるに氏にとって予想外だったのは、この紋白蝶厨子が、結構な数、再生産されてしまった、ということだった。製品としてではなく、工作として。
 前提として、モンシロチョウというのは取ろうと思えばいくらでも簡単に取れるし、また実質的には害虫であるので取れば取るだけありがたがられるという、実に採集しやすい蝶なので、子どもにも大量に集められる。だが集めたところでどうしようもないので、あまり集められることはない。しかし、明確な集める目標があれば話は変わってくる。たくさん集めれば何かになる、というのはモチベーションを高めてくれる。そして紋白蝶厨子というのは、細かな細工は抜きにすれば、要はモンシロチョウの羽を集めて箱状のものに張り付ければ似たようなものを作れてしまうのである。その完成度はともかくとして。
 結果、紋白蝶厨子のことをテレビ番組などで知った子どもたちの中に、これなら自分たちでも作れそうと考え、実行に移してみるチャレンジャーが結構な数出現したのである。当時の児童雑誌の中には「作ってみよう」というコンセプトの記事が載っているくらいで、おおらかな時代といえばおおらかだったのかもしれない。
 その結果として無数のモンシロチョウのいのちが消費され、日本各地で段ボールなどを心材として紋白蝶厨子の劣化コピーが作成されたのだが、子どもの細工の結果として、オリジナルの紋白蝶厨子では丁寧に取り除かれていた羽の付け根についているところの、弱々しい本体、つまり頭と胸と腹がそのままになっていることが多く、また接着に使われたのは主として工作のり(あるいは木工用ボンド)であり、ろくに保存処理をされることもない、下手をすると生きたままのモンシロチョウが大量に貼り付けられた工作品は、その生理的不快感、なまなましい死の感触、本質的なむなしさなどは完全にオリジナルをしのぐ出来映えになっていた。とりわけ虫嫌いのお父さんお母さんなどにとっては家の中にあるだけで悲鳴ものなので、おおかたは思い出として保存されることもなく処分されていったようだ。また、物置の隅などで放置していても劣化は避けられないので、現存しているものはごく少ないと考えられる。
 このように狛江氏の作品は彼の意図に反して大量の死を招くことになってしまったわけだが、子どもたちの中には大人になってから思い返して、よく考えてみればかわいそうなことをしたなあ、という思いを抱く人もいたかもしれず、そういう点においては、いのちについて考えさせるという当初の目標は果たされたと言ってよいだろう。モンシロチョウにしてみればただ災難だったかもしれないが。
 ちなみにオリジナルの紋白蝶厨子自体は現在井野市市立美術館に収蔵されているが、劣化を防ぐために常設展示はなされていない。観覧を希望の際はあらかじめ展覧会の予定などを確認しておくこと。


(全部嘘)

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