退屈だ、誰か死ね
アルバート・フィッシュを知っているか。
僕は知らないと答えた。
特別お腹が空いていた訳でもないのに、目に入ったから、歩き疲れてどこかに座りたかったから、所持金に余裕があったからという理由でハンバーガーショップに入店した僕らは窓際の二人用の席に着いて、一番安いハンバーガーのみでかれこれ二時間ほど粘っている。窓ガラスの向こうを頻繁に通り過ぎていく女子高生たちを眺め、誰に似ているかという話題だけで、最初の一時間はあっという間に過ぎていった。僕の向かいに座る前田は決まって同じアイドルの名前しか言わないので、その話題もついさっきやめにしたばかりだ。
アルバート・フィッシュを僕は知らなかった。
前田がその名前を出したとき、僕は斜め前のテーブルに座っていた子供連れの夫婦を眺めていた。子供は柔らかそうな髪の毛を七三に分けている男の子で、母親の細い腕に抱かれていた。確信はないけど、言葉を発する様子がなかったので、まだ一歳にも満たないのかもしれない。きょろきょろと動くその大きな瞳で、周囲の動くものを追っている。夫婦はかなり若く、特に母親の方に至っては、最近になってようやくお酒を飲めるようになったのではないだろうか。もしかしたらまだ高校生なのかもしれない。だとしたらあの父親は、見た限りでは僕と同じくらいだから、一年と十ヶ月遡ったくらいの時期に、女子高生と性行為に及んだということになるな、ということを前田に話そうか少しだけ迷った。面白くなる話ではないな、と思ったからだ。迷っているうちに、途端にあらゆることが億劫に思えてきて動けなくなった。
アルバート・フィッシュとは有名な殺人鬼の名らしい。まったく知らなかった。なぜその名が飛び出したのか前田に尋ねると、声をひそめて隅のテーブルに視線を向けた。身だしなみの整った白髪のおじいさんが一人、すぼめた口にストローを近づけている。あのおじいさんの表情が、ここ数年で見た中でも一番穏やかだったからだと前田は言った。そういう顔の人を見つけて殺人鬼を連想してしまう前田に、僕の先ほどのあやふやな憂鬱は薄れていった。その殺人鬼はそんなに優しい顔をしているのか。僕の問いに前田は頷いた。見た目はとても穏やかな顔のおじいちゃんなんだよ。花の形をしたカマキリと一緒でさ、ああいう顔の人を見ると、ついつい思い出してしまうんだ。
僕は前田に対して興味の色をまったく含まない声をうっかり発しながら、背もたれに深くもたれこんでしまい、少しだけ後悔した。でも前田はそういうことをいちいち察して傷ついたりするような人間ではない。少なくとも僕はそう思うし、そう思うことで作り笑いもなしに彼と付き合うことができている。これが理想の関係だとは言わないけれど、僕と他の奴らとの関係に比べればきっとずっとマシだ。
アルバート・フィッシュはとてつもない数の子どもを殺した。男の子も女の子も殺し、死体を食べたり、被害者の親に手紙を送ったりした。前田はそういうことを調べるのが好きで、友達が少ない理由もそれが原因だと思い込んでいる節がある。自分は暗い人間だから。うんざりするほど耳にした言葉だが、そういうことでも僕は構わなかった。正直に言えば、その話題にあまり興味が持てない。前田は本当に友達がいない。今日みたいに、不定期ながら僕が外に誘い出さない限り、ずっと実家に籠っている。関係の継続している僕に対して、前田の両親は好感を抱いてくれているらしい。前田が教えてくれた。
君はおれの両親に、少なくとも悪い印象は与えてないみたいだ。気に入られていると言ってもいいかもしれない。でも一つ言っておくけど、そこには何のメリットもないんだぜ。忘れんなよ。
先ほどの若い父親がハンバーガーの包み紙についたソースを、愛おしそうに舐めているのが目に入り不快だった。そのくせに目を逸らさず、僕は見つめ続ける。もともとお腹が空いていたわけじゃないし既に一つのハンバーガーを食べた後だというのに、なんとなく口寂しく思えてきた。でもきっと頼んでから、やっぱりやめときゃよかったなんて思ってしまう気もしたので、今は紙コップの中の解けた氷をすすることで我慢しよう。きっとこの食欲は、あの男のふざけた仕草が僕の脳に変な刺激を与えたってだけのことなのだ。
どうして殺人鬼を調べるのが好きなのか。
前田は笑って首を傾げたが、別に殺人とかそういうことが好きなわけではないのだと答えた。世界では今も昔も酷いことは起こっているし、これからも起り続ける。それを確認しているだけだ。忘れてはいけないことのはずなのに忘れてしまいがちだから、目を凝らすのだ。
そう言って前田は笑った。そんなの全部嘘だ。前田は単純にそういうことが好きなだけだ。こういう話をするときの前田の顔は本当に活き活きとしている。そういうときの前田も嫌いじゃないが、どこか疎ましく感じてしまうのは僕の僻みなのかもしれない。
おじいさんに再び目をやると、口元をティッシュでゆっくりと拭っていた。その所作もいちいち品が良くて、僕も何となく、あの人は異常者なのかもしれないと思った。大勢を殺しているのかもしれない。性器を傷つけられることで、射精するのかもしれない。前田が不意に溜息を吐いたが、面倒くさいので触れないでおこう。僕は黙ったままでいた。
前田が高校を中退した時に、僕はその理由を訊かなかった。それが優しさだと思っていた。理由は後に前田本人からではなく、他の人から伝えられた。クラスメートから虐めを受けていて、近々虐めの加害者の名を書き連ねた遺書を残して自殺しようとしているそうだ、とみんな言っていた。本人に理由を直接訊かなくて良かったと僕はホッとした。その日の学校終わりに前田の家に行った。急にどうした。前田は思っていたよりもあっけらかんとした様子で僕を迎え入れてくれた。前田との会話の中で、中退した本当の理由がただ単に学校が退屈すぎて、辞めたら何かが変われるのかもしれないと思ったからだと知った。僕が聞いたのは根も葉もないただの噂だったようだ。前田には噂のことは言わなかった。そうなんだ、とだけ答えておいた。
そろそろ出ようと僕は立ちあがる。前田がトレーをゴミ箱の方へと持って行ってくれる。先ほどの赤ちゃんと目が合った。自分でも意外なほど、自然と笑みがこぼれたが、その表情が嘘くさく見えていないだろうかと気になって、急いで前田の後を追った。
店を出て、前田に赤ちゃんの話をした。一番可愛い時期とはまさにあのことだよね。すると前田は、自分は子どもなんて欲しくないなどと言い出した。僕らの意志疎通のずさんさに無性に腹が立ってしまった。そういう話をしているんじゃないだろと語気を強めて言うと、分かってるよごめんと、寂しそうに前田は返すのだった。
外の空気は生温かった。この中を歩いているとすべてが無駄に感じられて、やる気がどんどん殺がれていく。何もしたくない。やれと言われても絶対に嫌だ。それほどの倦怠感を蹴散らすほどの何かを、僕も前田のように見つけなければならない。
すれ違う電柱に手のひらをぶつけながら歩く前田がふと、さっきのおじいちゃんが本当にアルバート・フィッシュみたいな人だったら面白いのになあと漏らした。
わかる。
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