母の突然死の知らせを受けたのは、出張先のマレーシア・ランカウイ島で温泉に浸かっているときだった。母とは非常に仲が良かったが、取引先の同行者がいたので死んだのであればあと2日残す出張をやり遂げてから帰っても同じだと考えたものの、当時の上司の計らいで、当日夜のKL発のMH便を確保いただき、告別式にも間に合うことができた。「お山の大将」って言葉が母のために作られたのかと思うほど、母は自身が届かない世界にいると思う人には近づかず、自分より小さい世界に生きていると考える人に対して過剰なほど親分肌を発揮した。聞くところでは、死の前日、彼女が「子分」と思っている人たち数名を連れてドジョウ屋や彼女が知っている店を連れ回した浅草飲みだおれツアーを遂行していたのだという。
死因は脳溢血で、昔から高血圧で苦しみ、目も見えなくなってきたようだが、最後にすがった医者は降圧剤を使わずに、症状を完治させる治療方針で、そもそも意思が弱く、大の酒好きであった母にとってもはや自死を選択したようなものだった。
死んでからも次々と運ばれてくる着払いの通販や駅前のスポーツクラブには死の直前に入会していた事実など、本当に冗談みたいな人生であったと感じつつ、母の死後、父は間もなく20年を迎え、我々兄弟には何一つ後悔を与えなかった生き様は立派だったと思うし、そもそも70代、80代を生きている姿が想像できない人であった。
ある女子プロレスラーの50代での訃報を目にしたが、デビュー以来常に迷走していて、人気を得るためにはこうしたら良いと一般的に思われる行動に対し、常に逆を張っていたような選手であったが、派手な雰囲気だけは印象深い。人の死に対して他人が早い遅いを語るのは、それこそ大きなお世話であるのだが、この人もまた若い死を運命づけられていたと感じさせる人で、ふと母のことを思い起こした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?