後期高齢者の少し過酷すぎた旅の話

こんな旅をしたことがある。2018年のことだ。
羽田発カタール経由でヨルダン・アンマン。数日後、キングフセインブリッジ (アレンビー橋)から陸路で国境を越えて、イスラエル・エルサレムへ。パレスチナ等観光後、同じルートでヨルダンに再入国し、アンマンには戻らず、キングフセインブリッジから白タクで死海を経てペトラ遺跡へ直行。帰路はアンマンから羽田へ。
旅の間は色々あった。「世界一厳しい国境超え」とも言われる陸路でのイスラエルへの入国はそれなりの緊張を味わうし、パレスチナ訪問は紛争の現実を目の当たりにする。ベツレヘムではバンクシーの壁画やへロディウム遺跡を目当てに白タクを借りたはよいが、運転手のニイちゃんが車を降りる際に案の定言い値の数倍をふっかけてきたため、お前と撮った写真をSNSでばら撒くと言ったら怒り狂い、我々を乗せたまま車を暴走し始めた。キングフセインブリッジで白タクを借りてペトラに直行するときにはヨルダンで使用可能な携帯を持っていなかったため、走行中の現在地が把握できず、また途中で車を乗り換えさせられたりと、僕は乗り物では常に乗った瞬間に眠気が襲ってくる特異な体質持ちだが、さすがにこの6時間は瞼が落ちてくることはなかった。ただ、お陰で決して忘れることができない途上の光景に出会えた。道路沿いにはシリアの難民キャンプや不法占拠地が至るところに存在し、急に車を停め、路上でトマトを売る難民の子と我々そっちのけでしぶとく値段交渉をしたあげく麻袋一杯のトマトを肩に掛け満足げに車に戻る運転手。そして、ペトラ遺跡の裏側から入る絶景は、ペトラの観光後アンマンへ向かうバスに乗って見たものとはまるで違っていた。
ただ、最大の問題は、こんな波乱含みの旅に後期高齢者である義両親を同行させたことである。
我々に身を委ねてくれれば大丈夫だからと旅前から言っていたし、これまでアジア、ヨーロッパを周ったときと同様にそうしてくれているものと思ったが、思いのほか我々夫婦の信頼が得られていないことが伝わってきたのは、イスラエルとの国境でヨルダン出国時に一時的にパスポートが手から離れることになるのだが、その時の狼狽っぷりを見てである。
すべての予定を終了し、アンマン空港からQR403に乗りこみ、残りの困難はカタール空港での15時間近いトランジットタイムの過ごし方だけと思いこんでいたが、午後3時頃カタール空港に着いて乗り継ぎのためのセキュリティチェックを受ける前に、義母が腹痛を訴え座り込んでしまった。30分経っても改善するどころか悪化するばかりである。まだ時間に余裕があったことから、一旦カタールに入国し、空港ロビーのベンチで休ませることにした。しかし、直ぐにベンチで寝ることすらままならなくなり、地べたに横たわり、嘔吐を繰り返すようになったため、空港職員の方に声を掛け、施設内のクリニックで診察をしてもらうことになった。
結果は、大きな病院での診察が必要とのこと。
救急車が呼ばれ、車内には大柄の救急隊員が、現在2つの病院で受け入れ態勢が整っており、どちらの病院を選択するか、それぞれの特徴を説明してくれた。また、1円もカタールに落とす予定のなかったトランジット客に適用されるのか、その時は半信半疑で聞いていたが、この国は医療費が無料だから安心しなさい、とも言ってくれた。
救急隊員が勧めてくれた比較的空港に近いアル・ワクラ病院へ到着したのはもう陽が完全に落ちてからだった。義母は診療室に直行され、我々は現地の人と共に、待合室で義母が元気になって出てくるのを待った(このときは、まだ帰国便に乗れるものと信じていた)。それにしても、今考えると義父も妻もよく許したなと思うが、このとき75歳の義母は完全に我々の手から離れ、医療実態も分からない病院に全面的に委ねられている状態にあった。
そして2時間ほど経過し、診察室に呼ばれた。
診断は盲腸。直ぐに手術が必要ということだった。現実的にそれ以外の手段はないのだが、義父、妻の顔を見ることもなく、しかも医師が説明してくれた「appendix」が盲腸を指す単語であると本当は理解していなかったにも関わらず、よく手術を了解したものだと、今になって自分の腹の括り方が将来自身を間違った方向に進まさなければよいが、と背筋に少し冷たいものを感じている。
それからまた数時間。術後の義母に面会できたのは夜が明けてからだった。その時はもはや予定便での帰国を諦め、とにかく四人元気で母国の地を踏むことを目標に頭を切り替えた。
看護師から入院手続きについて説明を受け、義母の入院生活が始まった。盲腸の手術後は、体内のガスが出るまで安静にしていなければならず、我々は中心部に近いホテルを予約し、そこからタクシーで病院に通うことにした。
アル・ワクラ病院は日本では見たことないほどゆとりのある、清潔で近代的な病院だった。医師も看護師も多国籍から構成され、対応にもそれぞれお国柄が現れ、とても興味深かった。3人の相部屋であったが、代わる代わる入る入院患者も我々にとったらどの人も個性的に見え、特にイスラム教最高の聖地カアバ神殿をぐるぐると周る巡礼者たちの映像を終日24時間大音量で流し続ける女性は強烈だった。
ホテルから病院まで約30分。タクシードライバーそれぞれにお気に入りのルートがあり、毎回行く道が異なるのだが、どのルートが選ばれても不思議と所要時間も値段も大きな相違はなかった。
十数回を往復した中で、僕のお気に入りは病院の裏にあるワールドカップに向け建設中のアル・ジャヌーブスタジアムの横を通るルートだった。ザハ・ハディッドが設計するカタールの現在を象徴する大規模な工事の一つだったと思う。
ワールドカップ開催を前にカタールの外国人労働者に対する劣悪な環境が大きく取り上げられているが、街灯が落ちた路上に、日中の労働を終えた外国人労働者(インド系が多かった)が行くあてもなくあふれる光景は異様で、報道されている内容を裏付ける場面の一部を目の当たりにした気もしている。ただ、今も続く中東の混乱をもたらしたヨーロッパ強国が、自分たちの過去を棚に置き、現在の価値観を振りかざすことに何の躊躇もない姿は滑稽で、哀れみすら感じている。そして、病院とホテルを往復していたタクシーの中で、ある日ケニアから来たというドライバーから、カタールの住みやすさについて、滔々と説明をもらったことも、ここで書き加えておく。
結局、義母の退院まで8日間掛かった。まあ、こんなことを言ったら同業者に袋叩きにあうが、航空会社の代理店営業など、時代錯誤の無用の長物で、実際僕が2週間以上会社を空けて出勤した翌日にはいつもの日常が広がっていた。
最初の救急隊員のみならず、医師も含め他の方も医療費について言及してくれていたので、大凡の請求金額は読めていたが、500-600ドルだったと記憶している。確か、医療費は無料、薬の実費と、何日目か以降の入院費だけが請求の対象であった。海外に暮らしたことのある人間であれば知っていると思うが、8日間無保険で入院し、手術でもしようものなら中流家庭の経済が吹っ飛ぶくらいの請求がきてもおかしくないなか、そもそも入国予定すらなかった旅行客に対し、機械的に制度が適用されただけとはいえ、申し訳無さと最大限の感謝が、今でもカタールという国には残っている。
元気を取り戻した義母を乗せ、タクシーで病院から空港へ向かう途中、ちょうど義父が80歳を迎える2022年に開催されるワールドカップをアル・ジャノブスタジアムで観戦し、病院とホテルの往復で観ることの出来なかった街並みを訪ね、きらびやかな土産をたくさん購入して、カタールに恩返しをしようと話した。
ワールドカップ開幕まで数日を控え、どうしても海外へ向かう気運が盛り上がらず、こうして長々と過去の思い出を書いている。
結論として義母の盲腸は旅中のストレスが原因だったと今にして思う。ちなみに、一つ報告として、帰国後、義母は改めて主治医に盲腸の手術痕を見てもらったそうだが、とても丁寧な処置がされていると感心されたそうだ。
晩冬を迎える極東よりワールドカップの成功を心より祈っている。

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