元大阪市長の関淳一氏は父の高校の1学年上。大阪市時代、芦原病院の取廻しに苦労され、医院長に迎えたのが、高校の後輩で、一浪して入学した大阪市立大学医学部では同級生となった越智さんだった。
大学時代は越智さんのほうが優秀で、早々に教授となり、一方、同じクラスで出世レースに破れた関氏は、大阪市に入り、「大阪の父」と呼ばれる関一氏を祖父にもつ血筋に政治の世界から目を付けられ、大阪市長となった。
父は市立病院であったと言い張るが、実際は民間の病院であった芦原病院の医院長人事がなぜ関氏の一存で決まるのか不明なままだが、同級生にすがらなければならないほど、この病院の問題に追い詰められていた当時の関氏の立場は想像できる。
また、どう考えても火中の栗を拾うこととなる依頼に応じた越智さんと関氏の間にある強い男同士の友情という美しい物語をわたしの中で妄想している。
社会にはどこかで矛盾を一括で抱え込む橋の下のような場所が必要とされており、それは不文律として構造に組み込むことで当面社会が機能してゆく。一方で、必要悪そのものの中にも空気があり、水があり、そこで暮らす人がいる。しかしながら、矛盾から生まれたその空間が永遠ではないことを十分に分かっている住人たちは力を合わせ一日でも長い延命を図ってきた。時が過ぎ、その頓珍漢な世界を日常と感じるようになった世代が増長し、自らの屋台骨まで傷つけてしまったというのが芦原病院問題の行き着いた先だったと僕は思っている。

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