第1章 祝武子の場合 第2節 巫女学校の日々

巫女の修行は、ひたすら暗記もの、暗記もの。お経やら、祝詞のりとやら、ごえいやら、意味は分からなくても良いから「うたえ」と言われたわ。ただ暗記するんじゃなくて、「経文に入りめ」と。「これが最後のおいのりなんだと思って手を合わせれば、自然と心はこもるもの」とも言われた。武子たけこの知覚のとびらの内、開くのは、音と、においと、味と、手ざわりの四つだけ。余計な物が見えないやみの世界って、実は巫女修行に向いてるの。五感の一つをふうじることで、心はかえって自由になる。口から出た言葉が、ブーメランみたいに体の中に入って行く。巫女さんから、飲み込みが早いと言われた時は、ちょっと、うれしかったわね。

お祈りを始めて数か月で、闇の中にぼや~っと、のっぺらぼうみたいな物が見えるようになった。巫女さんに聞いたら、これが神さまなんだって。目もない鼻もない、なんにも言わない、のっぺら坊が神さま?「最初の内は、そんなものなの。絶対、こわがっちゃダメよ」と巫女さんは言った。「たった数か月で、もう見えるとは、アンタはやっぱりスジがいい」とめられもした。確かに、こわいと思ったらきょが出来る。「こんなものかな」と思ったら、逆に「いいんじゃない?」と思えるようになった。武子たけこって、何も考えずに生きてるトコがあるからね。

お祈りしてる間に、体に出て来る反応は様ざまよ。体がふわぁ~と軽くなる時もある。ドッとつかれが出る時もある。あせまみれになる時もある。体も時間の感覚も、けちゃう時もある。巫女さんに言わせると、「体が気持ちについて行けない内は、まだまだ」なんだって。

一年くらいで「お経を、うたえ。入り込め」と言われた意味が分かるようになった。要はリズムなの。呼吸に言葉をのせる。呼吸と、いっしょに自分の生命を、ゆっくり口から出し入れする積もりで、体の波と心の波がピタリといっするようになるまで、手を変え品を変えて、心と体をきたえるの。手を合わせれば、自然と体が動きだすようになるまで、同じことをり返す必要があったの。それで初めて信じる気持ちがいてくる。祈りやまいが力になる。日々の積み重ねが力となり、毛穴から入るように、体がおしえに染まって行く。頭で理解するもんじゃなかったのよ。その内、お祈りをしている時、正座して手を合わせている自分の姿がボンヤリ見えるようになったわ。そういうイメージなんだと思うけど。少しずつだけど、心よりも、体と仲良くなったような気がする。自分の手や、うでや、足や、体の存在を意識するようになった。物は言わない。でも、そこにある。それが自分だ。体は心のウツワ。心は体のツバサ。考えるな。感じるんだ?

神さまは、なんにもしてくれない。何かするのは、こっちの方。だんだん「要らない物は捨てちゃおう」と、思うようになった。でも、意識しちゃダメ。やっぱり、お祈りしかない。

むしろ、きついのは家事の方だった。もともと13さいでしょ、お料理もおさいほうも、ちゃんと出来てたわけじゃないのに、ずいぶん、きつくまれてね。でも、あれが武子たけこの「せんとうくんれん」だったんだと思う。さんには、ずいぶんしかられたけど、いじめられてたわけじゃない。ご飯もおも、自分の分を武子たけこにくれたりした。大事にされてたのね。
おかげで、もともと泣かない子ではあったけど、なみだを言いわけにしないことを体で覚えた。結果が出るまで、やり続けるしかないんだと学んだ。それがあとで、とても役に立ったのよ。

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