第1話 【映画評】ノスフェラトゥ・ヘルツォーク版(2022.7.6記)

【サルでも分かるドラキュラ入門】

1.作品データ
監督・脚本・製作;ヴェルナー・ヘルツォーク
主演;クラウス・キンスキー、イザベル・アジャーニ、ブルーノ・ガンツ
公開;1979年4月12日(日本公開は1985年)
上映時間;107分
製作国;西独、仏

2.兎平亀作の意見です

ある必要があって、ドラキュラについて集中的に調べている。

調査に着手してみて驚いたのだが、我が国では、ドラキュラに関する基本文献や研究書が、読み通すのに困るくらい邦訳されていたのだ。
それらの書物のエキスを、私はありがたくチュウチュウ吸わせてもらった、ヤブッ蚊みたいに。

ところが困った事態に陥った。活字情報は飽くまでも活字情報なのである。
ブラム・ストーカーや、シェリダン・レ・ファニュの美文調を、私はけっこう気に入っているのだが、レトリックは所詮、レトリックである。

私が求めているのは、血がしたたるようなステーキの舌触りとか、カルパチヤ山脈の足回りの悪さとか、下町の運河のドブ臭さとかなのだ。
そもそも主要な交通手段は馬車か帆船と言う時代である。そこら辺で既に、私の想像力はズッコケているのである。

これらの生き生きしたイメージは、活字情報からも、そしてハリウッド製ドラキュラ映画からも得られなかった、誠に残念ながら。

そこで、ヘルツォーク版ノスフェラトゥの話なんだが、私にとってはクリーン・ヒットの万歳三唱のノーベル賞ものであった。

本作は「様式美」一点張りの映画であると、私は見た。この映画がピタッと合わせた「物差し」または「お手本」あっての映画だと、私は見た。

俳優たちは、みんな両手に水の入った金魚鉢を捧げ持って演技してるみたいに見えた。リアリズムなんて、最初っから問題にもされていないのではないか。

ちなみに私が見たのは英語版である。あの棒を飲んだような、コンベンショナルなセリフ回しには賛否両論あるみたいだが、私は「これはこれで、良い味が出てる」と思った。

この映画は、こういう学芸会めいた感じで良いのではなかろうか。およそ古典と呼ばれるほどの芸術作品は、みんな、固有の形式、固有の様式美を備えているからだ。

具体例を挙げれぱ、忠臣蔵も九郎判官義経も、みんなお約束、つまり様式美にのっとって動いて行く。
吉良上野介はホントは良い人で、良心的な殿様だったのかもしれないが、忠臣蔵と言う芝居は「恨み重なる吉良上野介」と言う設定から軸足がブレると、話が前に進まなくなるのである。誰が何のためにナニやってる話なのか、分からなくなってしまうのである。

もっと言えば、桃太郎だって、金太郎だって、かぐや姫だって、わらしべ長者だって、みんな、そうだ。

話をヘルツォーク版ノスフェラトゥに戻す。
この映画は「ドラキュラ映画とは、こういったものでござりましたか。ありがたや、ありがたや」と伏し拝んで見るべき映画なのではなかろうか。娯楽映画じゃなくて、映画の教科書みたいなもんだと。

小学校1年生に戻った積もりで、教科書に書いてあることを額面通りに受け取るべし。
まずは基本をきっちり押さえること。アレンジや改変は、その後に出てくる話なのである。
だから、これで良いのだ。

【蛇足ながら】
クラウス・キンスキーめが、ドラキュラ役者の風上にも置けないことを(1回だけだが)やらかしたので、私は甚だしく不愉快であった。

イザベル・アジャーニの寝込みを襲うシーンで、ネグリジェの裾をまくり上げて、白い腿をなでなでしてくれたのである。

おまえが注視するのは、そっちじゃないだろ、このエロキュラ!

「ガラにもなく、女の色香に迷って朝帰り→朝日を浴びて突然死」の伏線の積もりか知らんが、他の演出はできなかったのか。これじゃ、どこにでもいるセクハラおやじだ。

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