第1話 【映画評】ハクソー・リッジ(2017.6.30記)

【たとえ死のかげの谷を歩むとも】

1.作品データ

監督;メル・ギブソン
出演者;アンドリュー・ガーフィールド
公開;2016年(日本公開は2017年)
上映時間;139分
製作国;米、豪

2.兎平亀作の意見です

この映画は、第二次世界大戦中のアメリカの、非暴力主義者の話です。沖縄戦を扱っていますが、私は戦争映画ではなく、キリスト教に関する映画だと思いました。

「クリスチャンは、神さまというものを、どのようにとらえているか。」

この点を頭に置いて、この映画を観ていかないと、主人公の青年、デズモンド・ドスのやる事なす事が、支離滅裂で意味不明なものとしか映らないからです。

アメリカは自由の国です。宗教的迫害を逃れた新教徒が建てた国なので、信仰の自由については特段の配慮をしているとも聞きました。

たとえば、「神は人を殺すなと命じられました。だから私は兵役を拒否します」と言われたら、合衆国陸軍でもグウの音も出ない。良心的兵役拒否は、合衆国憲法で認められたアメリカ市民の権利だからです。

「戦争は罪です。われわれアメリカ人が、降伏して飢えている日本人に緊急食糧援助を行うのは、その償いのためなのです」と言われたら、合衆国大統領ハリー・トルーマンも、食糧輸出の許可をシブシブ出さざるを得ませんでした。
「戦争は罪」と言われては、「戦争の親玉」トルーマンは、さぞや面白くなかったでしょう。なにしろ、ヒロシマ・ナガサキに原爆を投下した責任者なんですから。

映画「ハクソー・リッジ」に話をもどします。

主人公の青年、デズモンド・ドスは「私は決して銃を手にしない」と、神に誓った男です。だったら兵役拒否すればいいものを、わざわざ陸軍に志願して、衛生兵になることを希望します。衛生兵は敵を殺さず、人の命を助ける仕事だからです。
そうは言っても、衛生兵だって自分の身を守る必要があります。銃砲取り扱い訓練を受けていない兵士を、戦場に連れて行くワケにはいきません。
ところがドスは、銃に手を触れるのもイヤだと言う。しかも、自分の宗派では土曜は安息日だから休ませろなどとゴネる。

そんなワガママが通るはずもないので、ドスは上官にはイビられ、同じ隊の仲間にはリンチされます。ドスが音を上げて、「除隊させてくれ」と言いだすよう仕向けたのです。

ところがドスは、ボコボコにされても、留置場に放りこまれても屈服しない。このガンコさは、ドスの婚約者にすら理解できません。「あなたは、ケチなプライドに、こだわってるだけだ」と、婚約者はドスをボロクソに言います。ここまで言われたら、どんな男でも動揺するでしょう。
しかし、ドスは踏みとどまります。

ドスいわく、「神さまとの約束を破ったら、自分は自分でなくなる。君が大すきなデズモンド・ドスは、永遠にいなくなってしまうよ。」

ここまで来ると、「どうもドスの確信というのは、中途ハンパなものじゃないらしい」と、傍観者の私にも伝わってきました。ついに婚約者も、ドスにサジを投げます。

事ここに至ったら、陸軍としても軍法会議でシロクロつけるしかなくなる。本当は軍法会議なんて、やりたくないのです。「モメ事を起こした」事自体が、人事評価に響くからです。
関係者は、ドスを「不名誉除隊」で厄介払いするハラでした。「不名誉除隊」とは、会社で言えば懲戒解雇みたいなもんです。ドスがひと言、「命令を拒否して、悪うございました」と言ってくれさえすれば、それで一件落着だったのです。

ドスも揺れていましたが、ギリギリになって、「自分はまちがってない」と言いはじめます。
「オイ。いいかげんにしろよ。そもそも非暴力主義者のオマエが、一体ナニがしたくて陸軍に志願したんだ?」という話になる。
そりゃあ、当然そうなります。

ここでドスは、自分が陸軍に志願した理由を、初めて理路整然と口にします。
ドスいわく、「自分も、そして自分の周りの男たちも、日本による真珠湾攻撃に大きなショックを受け、祖国のために、なにかせずにはいられないという気持ちになった。自分は軍需工場で働いていたので、すでに徴兵延期の特権を享受していたのだが、それを返上して志願することにした。自分の周りに、軍に志願はしたものの、身体検査で不合格となり、それに絶望して自殺した男が二人いたからだ。」

なるほど。クリスチャンが自殺を選ぶとは穏やかではありませんな。
ドスが心を動かされた理由も、何となく理解できました。
このあと、奇蹟的な逆転ホームランがあり、ドスの希望は、かなえられることになります。

ただし、この時点では、「そもそもドスは、なんで『銃を手にしない』と神に誓ったのか」という理由が明らかにされていません。
これにも深くて重い理由があるのですが、ネタバレになるから書けません。

とにかく、理由はどうあれ、神さまと約束してしまった以上は、それをバカ正直に守るしかないみたいです。

ここまで来ると、仏教徒の私には理解できません。
だから、以下に記すのは、「私の長年の観察に基づく推論」です。
クリスチャンのみなさん。まちがっていたら、ごめんなさい。

Faithという単語があります。アメリカ人はFaithをとても大事にすると聞きましたが、日本語にはメチャクチャ訳しにくい言葉です。
あえて意訳すれば、「おてんとう様に恥ずかしくない生き方」といったところでしょうか。多分、ちがうな。

というのも、キリスト教の神さまと、人間との関係には、なんだか「契約」っぽいニュアンスが感じられるからです。
人には持って生まれた運命というものがありますが、それでも、クリスチャンになるのか、ならないのかは、「人間の側の契約の自由に属する」みたいな感じを受けます。

しかも、契約違反のペナルティはキツい。「死んだら地獄行き」だけじゃ、済みません。
そもそもアメリカは「聖書に手を置いて『真実のみを述べる』と誓ったら、絶対にウソはつけない」という文化です。
つまり、神さまを裏切ったら、生きてる内からペナルティを課されます。「誰からも相手にされなくなる」というペナルティです。「言ってる事と、やってる事とが、著しくかけ離れている人間」、「Integrityのカケラもない人間」は、人間ではないからです。

じゃあ、神さまとの契約に、標準書式はあるのかというと、(私の観察によれば)あるようで、ないみたいです。まあ、下記三点は、カトリックでもプロテスタントでも東方教会でも、必要最低限の記載事項みたいに思えますが。

一、三位一体を信じること。
一、神が起こした奇蹟を信じること。
一、モーセの十戒を守ること。

こういうやり方だと、人によっては、ものすごくキツい契約を、神さまと結んでいることもありうるでしょう。もちろん、本人がそうしたいから、そうしているのですが、映画「ハクソー・リッジ」の主人公、デズモンド・ドスが、正にそういう男なのです。だから、周りの言うことを聞かないし、リンチでボコボコにされても平然としていられるのです。そんなことよりも、神さまとの契約の方が大事ですから。

実は、この映画。下記のような方がたには、おすすめできません。
すなわち、「私は、キモチワルイものは見せられたくありません。アルフレッド・ヒッチコック『サイコ』でもムリ。トビー・フーパー『悪魔のいけにえ』なんて論外」という方がたには、とてもじゃないけど、おすすめできない戦場シーンが出てくるのです。
まあ、多くは語りますまい。

ただ、この戦場シーンを、ただのスペクタクル、ただのエンターテインメントとは、私はとらえていません。ここは、思い切り残酷に描く必要があったのだと思います。
人が傷つき、死んでいくのを、なんだか甘ったるく、ロマンチックに描いてしまうと、心正しき男、デズモンド・ドスが、生きるか死ぬかの試練を与えられて、もがき苦しんでいるのが、観客に伝わってこないからです。
もしも、この映画が、「心正しきスーパーマンが、地獄の戦場で人の命を救う、ヒロイック・ファンタジー」みたいだったら、私は偽善としか感じなかったでしょう。
神さまとの契約を果たすには、ここまでの思いをしなければならなかった。
それがデズモンド・ドスのFaithだった。そういう映画なんだと思います。

それにしても、キリスト教の神さまはキツいですね。いいかげんなヤツよりも、心正しき者に対して、ことさら当たりがキツいように感じられます。かく言う私は、二泊三日の参禅会でも、最後の方は泣きが入ってしまいました。

私がチャリティやボランティアの世界に首をつっこんでから、そろそろ一年半になります。ウロチョロしている内に、色んな団体とおつきあいしていただけるようになりました。人権団体から、大学のボランティア・センターまで、まあ、本当に、人生イロイロ、団体もイロイロです。
その中で、キリスト教の流れを組む、チャリティ・ボランティア団体というのは、どうも動機の面でちがいがあるようだ。私みたいな、いいかげんな人間には、理解が及ばない領域があるらしいと、最近、ようやく気がつきました。

映画「ハクソー・リッジ」は、私のそういう気持ち(問題意識とは、あえて言いません)に、ピタッとはまったんだと思います。
だからこの映画は、私にとっては、戦争映画ではありません。

この文章を書き終えて、人はなぜ殺し合うのかなと、ふと思いました。

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