第6話 【書評】秘義なきキリスト教(2023.7.17記)

【これはやり過ぎ。ヘーゲル左派じゃないんだから】

1.書名・著者名等

ジョン・トーランド (著)  三井礼子 (翻訳)
『秘義なきキリスト教』 (叢書・ウニベルシタス)
出版社 ‏ : ‎ 法政大学出版局
発売日 ‏ : ‎ 2011/6/29
単行本 ‏ : ‎ 358ページ

2.兎平亀作の意見です

ジョン・トーランド(1670-1722)は、アイルランドおよびイギリスの自由主義思想家。
彼の時代のイギリスは、名誉革命(1688-1689)を経たばかりで、立憲君主制がまだグラグラしていた。王権神授説に心を寄せる保守派(主にトーリー党)の巻き返しに対抗するため、自由主義者(主にホイッグ党)および自由主義思想が、その本領を発揮した時期でもあった。
現に1715年と1745年の二度に渡って、フランスに亡命した旧王族による反革命戦争(ジャコバイトの乱)が起こっているのである。

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さて本書『秘義なきキリスト教』(1696)の内容を要約すれば「聖書に書いてある事は100%理性で把握可能だ。合理的な範囲で認識可能だ。なんとなくアイマイモコとして見えるのは、単に坊主連中がもったいをつけているだけだから、気にしなくてよい。どの道、私たちは、語り得ない事については論理で実証する事もできない。沈黙するしかないのだから」と言わんばかりだった。
「不合理ゆえにわれ信ず」だなんて、トーランドの前で口にする勇気は、私には、ない。
決して誇張ではない。本書の書名を、副題も含めて略さず翻訳すれば、下記のようになるのだ。私が要約したのと、ほぼ同じである。

『秘義なきキリスト教、または、福音には理性に反するものも理性を超えるものもないこと、キリスト教の教理はどれも本来秘義と呼びえないことを証明する論考』
Christianity not Mysterious: OR, A TREATISE shewing, That there is nothing in the GOSPEL Contrary to REASON, Nor ABOVE it: And that no Christian Doctrine can be properly call’d A MYSTERY.

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「理性で把握可能な福音」とは、たとえて言えば、こういう事だ。

ある正直者が私に向かって、「両端のない、無限に続く杖を見たよ」と告げたとする。
私は「こいつが嘘をつくとは思えないが、おそらく夢でも見たんだろう」と無視するだろう。
だって、仮に私たちの生活空間に無限長の杖が出現したとして、それをどうやって認識すれば良いのだ?無限長を計測できる物差しを、私たちはまだ入手していないのに。自分の頭の上にある青空ですら、測る手段はないのに。私たちは自分を中心にして、「東だ」「西だ」と言い合っているに過ぎないのに。ニュートンは言うに及ばず、アインシュタインだって、対応に困るだろう。
つまり、この正直者が私に告げた事は理に適っていない。相手にする必要がないのである。

では、その正直者が「大地に杖を挿したら、根付いて、芽が出て、枝が生えて、大木になったよ」と告げたらどうか?
私は「そんな事、本当にあるのかな?こいつが嘘をつくとは思えないしな」と、少なくとも理性的検討の俎上には載せるだろう。
「杖が大木になったと言う神話・伝承」のタグイは、さほど珍しいものではないが、私はこの目で見た事がない。だが、「見た事がない」のと「絶対にあり得ない」は、レベルが違う話だ。
その正直者が見ている前で、神が奇蹟を起こしたのだと仮定すれば、杖が大木になるのは十分、合理的だ。通常の自然の働きは超えているが、自然の法則に反しているワケではない。
つまり問題は、奇蹟を信じるか否かだ。神の全能を信じるか否かだ。
もしも信じられないなら、その杖(=大木)の所在地まで足を運び、その目で見て、その手で触って、自分で確かめれば良いだけの事だ。それが理性的な認識と言うものだ。

つまり福音は理性で把握可能だ。妙なもったいをつける必要はない。
神について語る以上、神の観念もまた、もったいぶった神秘的な物であってはならないのである。私たちは、語り得ない事については沈黙するしかないのだから。

(この「杖のたとえ」は、本書30-32ページにおけるトーランドの論述を、私流にアレンジしたものである。「『神なる存在』自体も『神秘的』とはみなしえない」と言う記述は69ページにある。)

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また、こういう言い方もできる。
もしも私が、「この氷は冷たいとも言えるし、熱いとも言える」などと、矛盾した事を口にしたら、それを聞いた人から「それは本当に氷なのか?」と疑われるだろう。
同じく私が、「この氷は見る事ができず、触れる事もできず、どういう物なのか、サッパリ理解できなかった」と秘密めかした言い方をしたら、それを聞いた人から「オマエは寝言を言っているのか。その氷を口に入れてみれば分かるじゃないか」とバカにされるだろう。

上記のたとえ話の、前者は論理矛盾だ。後者がキリスト教神学で言う所の秘義だ。
矛盾は互いに打ち消し合う一組の観念によって「不可能」以外の何も表さず、秘義は何の観念も持たない言葉によって何も表さない。矛盾と秘義は虚無を言い表す二つの強調的な言い方にすぎない。
虚無は信仰の対象になりえない。信仰が信者に対して「これこれをせよ」、「これこれをするな」と命じるものである以上、その内容は万人に理解できるものでなければならない。

(以上は、本書22-23ページ、105-106ページおよび143ページにおけるトーランドの論述を、私流にアレンジしたものである。)

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トーランドとは、ユニテリアンみたいな事を言う人だなと思った。当時のイギリスでは、ユニテリアンが提起した反三位一体論争が、ほぼ10年に渡って続いていた。ユニテリアンとは、徹底した理性重視の姿勢を、キリスト教の中に持ち込もうとした人々である。

だが、当のユニテリアンだって、トーランドほどには理性一辺倒じゃなく、啓示の必要性を必ずしも否定してはいなかった。(本書281ページ)
そもそも当時の英国ユニテリアン主流は「三位一体論の是非」と言う神学論争に的を絞っており、ジョン・ロックの経験論哲学の影響は、まだ部分的・萌芽的だった。(本書245-247ページ)そういう時代だったのだ。
またユニテリアンは、トーランドほどには既存教会に対して敵対的・挑発的でもなかった。
当時の英国ユニテリアンは、神学上の問題では「うるせえやつら」だったかもしれないが、教会統治の問題には踏み込まなかった。むしろイギリス国教会への包含を望んでいたフシもある(本書238ページ)。
ある学術論文(注)および本書の解説が、そう教えてくれた。

(注) 三井礼子「ジョン・トーランド『キリスト教は神秘ならず』の一つの背景―反三位一体論争」イギリス哲学研究、13 巻 (1990)、p16-31

「神を信じると口では言っているが、こいつのホンネは唯物論なんじゃないか、無神論なんじゃないか」と疑惑の目を向けられて、トーランドは一生消えない傷(つまり悪名)を負わされたそうだ。思想家と言うより政界ゴロの扱いを受けて、52年の恵まれない生涯を閉じる事になったそうだ。

そりゃ、そうだろう。私だって、『秘義なきキリスト教』を読めばトーランドの真意を疑う。
本書出版時、トーランド25歳。若気の至りとはいえ、ケンカを売った相手が悪過ぎましたな。

「有能でたいへんな学識者だが、信心はほとんどない。」
これが23歳のトーランドに対する周囲の評価だったと言う。(本書213ページ)
まあ、そんな感じだったのではなかろうか。

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19世紀ドイツで、ヘーゲル左派の思想家たち(シュティルナー、フォイエルバッハ、マルクス、エンゲルス他)が公然たる無神論にまで踏み込む事ができたのは、カントやヘーゲルが理神論(理性的な信仰を重んじる哲学的主張)の地ならしを、散々やった後を歩いたからだ。
時代的制約とはいえ、まだ自由主義者の域にとどまっていたトーランドが、教会の顔をツブそうとしちゃいかんと思う。まだ政教分離を言うには早すぎた。
そもそもトーランド先生ご自身が、「理神論者」および「自由思想家/リベルタン」と言う言葉を「好ましからざる人物」または「不逞のヤカラ」の意味で使ってござるのだ。(本書132ページ)まだ、そんな時代だったのである。

当時のイギリス国教会には「広教主義者 Latitude-Men, Latitudinarians」なるレッテルを貼られた、中途ハンパな寛容を説く中道派がいたそうだ。ここで言うlatitudeとは「何でもアリの定見なし。節操もない、ズブズブの寄せ集め集団」と言った含意の悪口である。
この人たちは、ローマ・カトリックに対しては「もったいをつけるな。秘義で信者を煙に巻くな。もっと理性的になれ」と批判する一方で、ユニテリアンが「三位一体は不合理だ」と言い始めると「不合理ゆえにわれ信ず」とばかりに「秘義」に逃げ込む。なるほど定見なしのズブズブ主義ではあるが、この人たちは自由主義とも理神論とも相性は良かった。(ユニテリアンと付き合いのある人さえいた。)

だがトーランドは、頭の固い国教会・保守派も、物分かりの良い広教主義者も、まとめて敵に回してしまったのだ。
これじゃ、単なるはね上がりだ。それなりのリアクションを受けて当然である。

業界内幕物めいた話になるが、1698年ごろ、イギリス国教会は非国教徒の一部(具体的には長老派)の「包含」を計画していた。我らがトーランド先生はこれに否定的だった。
「かかる談合体制は、そこから締め出された少数派いじめにつながるだけだ。必要なのは『包含』ではなく寛容である」と言うのがトーランド大先生のご高説である。(本書305-306ページ)
ほんの2年前の1696年に『秘義なきキリスト教』を出版したアンタが、それ言うかぁ?
同書でボロカスに叩かれた国教会から見れば、今さらトーランドに「寛容になれ」と説教されても、できない相談だろう。
(なお、トーランドが我田引水する所の「寛容」の対象範囲に、ローマ・カトリックは含まれていないので念のため。)

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実はトーランドの理性論は、ジョン・ロックの『人間知性論』(1689)を下敷きにしたものだ。『人間知性論』は、ユニテリアンの一部からタネ本扱いされたが、同じ自由主義者でも、ロックはトーランドより、はるかに、うまく立ち回っていた。政界のパトロンと、良く言えば「付かず離れずの関係」、悪く言えば御用学者だったのだが、ホイッグ党の精神的支柱となる事によって、ロックの哲学はジワジワと影響力を広げて行った。
極論をもてあそぶばかりのトーランドの、到底なしうる所ではない。

そもそも私はトーランドの極論を(トーランド本人が自負していただろうほどには)ラジカル(徹底的・根源的)だとは思っていない。
それほど理性、理性と言うならば、「人間の自由意志と、全能の神さまと、一体どっちが上なんだ?そもそも人間は、自分一人の力量で善悪を選択できるのか?その責任を負えるのか?」と言う難問に、必ずブチ当たるはずである。(日本では浄土真宗がこの難問と正面衝突して、しなくても良い苦労を、ずいぶんしている。)
本書の訳者によると、「人間の自由意志と神の全能性とをいかに両立させるかが、古来より神学的な大問題であった」(本書171ページ)のだそうだ。

これに対するトーランドの返答と言うのが、「私たちがおのれのうちで経験する絶対的な自由と、神の全能や神への私たちの従属とがどのように両立するかは、適切な箇所で考察されるだろう」(本書52ページ)である!
なんだ、こいつ。ここまでラッパ吹いといて、「ヤバい」と見たら、逃げるのかよ。

また、別の箇所で、トーランドは、こうも書いている。

(引用者注;「人間の『理性』には神の啓示を判断する能力がない」との説は誤りだと、トーランドは主張する。)
「なぜなら、『理性』自体は神の法に従うものであり、かつ従うべきものであるからである。だが、この服従は『理性』の不完全性を示しているのではない。公正な法律への服従が私たちの自由を破壊すると言いえないのと同じである。『理性』はまず神の法を理解しなければならず、その後でそれに従わなければならない。なぜなら、人は命じられていないことを行わなかったからという理由で罰せられないのと同様に、理解できない法を守らなかったからという理由で罰せられることはありえないからである。」(本書96ページ)

私には、トーランドは「神の法は理性的なものである。そうとしか理解できない。だから理性が神の法に従っても、何の矛盾も生じない」と言っているように聞こえる。これは同義反復だ。「理性は理性に従う」と言ってるだけだ。総理大臣の国会答弁じゃあるまいし。

この理屈では「神がリスボンに大震災を起こして、大勢の人間を死に至らしめたのは合理的なのか?」と言う(カッコ付き「理神論者」である所の)ヴォルテールのラジカル(徹底的・根源的)な問題提起に答えられない。
現に福島第一原子力発電所事故は、"If anything can go wrong, it will."(失敗する可能性のあるものは、失敗する)と言うマーフィーの法則に例外はない事を証明した。
では、福島第一原発事故は合理的なのか?
(事は福島第一原発に限らずだが)理性の名において公然と野蛮が行われている現実の前で、神の法とは一体、何なのか?(これがヴォルテールの言いたかった事なのだが。)

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かく言う私は念仏。つまり異教徒である。
トーランドの極論は(距離を置いて読む分には)とてもスリリングで、なおかつスキャンダラスで、興味をそそられた。
まるで下手クソの綱渡りを見物しているようだった。「いつ落ちるんだろか」とハラハラしながら、私は『秘義なきキリスト教』をむさぼり読んだ。
「人の災難を楽しむな」と泉下のトーランドに言われたら、返す言葉はないが。

【追記】
仏教では「人間の我は、水の泡のようなものだ」と考える。あると言えばあるし、ないと言えばない。誠に、はかない物なのである。(いや、物ですらない。)
本文中で「人間の自由意志と、全能の神さまと、一体どっちが上なんだ?」と言う設問を掲げたが、上も下もないのだ。水の泡なんだから。水の泡と神さまを、ハカリにかけても、しょうがないだろう。

「じゃあ、親鸞の『歎異抄』は何なんだ。自力本願(人間の自由意志に基づく信心)と他力本願(全能の阿弥陀さまに対する無条件の信心)を、思いっ切り二項対立的に捉えているではないか」と反論されそうである。
「いや、あれは親鸞と言う一人の男の意見に過ぎない」と言ってやりたいところだが、仏教にはカトリックもプロテスタントもユニテリアンもないから困る。
「みんな違って、みんないい」ぐらいの事しか言えないのだ。
どうも、すいません。

【2023.8.9 Revised】

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