もうポリコレはいいやと思った。アサクリシャドウズのトレーラーの騒動を見て自分の中で変わったこと


つい先日アサシンクリードシャドウズというゲームのトレーラーが公開されたわけですが、その内容がいろいろとあれでして、結構な物議を醸している模様



私個人としてもこれを見るまでポリコレは中立というか、「志はいいんでないの?いろいろ問題あるだろうけどがんばれ」と思いつつもばりばりの他人事だったんですが今回のアサクリシャドウズ炎上の件で大分印象が変わりました。

ポリコレに疑問を抱いた理由


今回の件をうけてポリコレの背景にある「woke」っていう運動にはアジア人、とりわけアジア人男性は含まれていないってことなのか、という事に対する疑念が生まれたことがそのきっかけ。

というのはこのゲームの主人公に弥助という黒人の侍が抜擢されたことが判明したことから始まるのですが、「なぜ主人公が日本人男性ではないのか。これまでのシリーズは主人公はずっと架空のキャラクターで現地、ないしはテーマや地方出身の主人公で統一してきたのに、なぜ今作になって史実の人物、それもほとんど文献も膨大な歴史的書籍の中に本の数行程度しか情報がのこっていない侍かどうかすら怪しい弥助という人物が将軍も顔負けの甲冑鎧をきて戦場をかけるバリバリの侍として描かれ、さらに開発はそれを"史実である"としてPRしているのか」「"私たちの侍"として日本人男を排斥し、代わりに黒人を起用した」という点で、その不自然さと無理やりねじ込まれた感のある弥助という黒人のキャラクターになったということがポリコレ的に考えてもおかしい、アジア人男性は"あなたたち"の中には含まれない、我々はアジア人は仲間ではない、必要ないということか?時代考証に忠実に再現することが売りだった20年近い長年のシリーズで、なぜ急にこんなことをしたのか、アジア人男性が排斥されている点においてポリコレ勢の中で糾弾する動きが全くなく、むしろ黒人主人公を擁護することなど(これが一番自分の中では大きかった)、「人類みな平等」を掲げるポリコレという考え方にも差別があるのではないか?結局はただの偽善か、それよりも悪質なものではないかという疑問を抱かざるを得ない状態になったため。

元々見下されていたアジア人

アジア人女性は日本人はおとなしくて従順だとか韓国のアイドルはかわいいとかで一定の人気があるみたいだけども(それもだいぶなめられてる感すごいけど)、男は違うみたい。その影響かクロニクルチャイナという同ゲームの別シリーズは女主人公だった。マジでアジア人ピンポイントで男が主人公から外されてるんよな。

実際、アジア人男は本当に見下されてるって話は割と聞いたことはありました。白人や黒人にくらべたら体も小さいし、なよなよしてたり自分の意思がはっきりしないし、なんかへらへらしてるし(これは日本人がといった方がいいのかもしれないけど)から舐められやすいんでしょうね。そこに政治的イデオロギーが組み合わさって、「こいつらならいじめていい」って空気ができあがったんではないかなんて思っています。日本人がへらへらしてんのは日本特有の生き残り戦略「愛想笑い」だから。なんだかんだ有効だからやってるってだけだ。誰でもやるわけでなし。

で、これがポリコレ勢の中でも変わってなさそう、アジア人男性は彼らの中のDEIの中に含まれていないのではないかと、思うわけですね。今回のように黒人男性に主人公を挿げ替えられるだけでなく、歴史すら捻じ曲げて史実だと言い張る。文化盗用もアジア(日本)だからOKだと平気でやる。

だったらもう支持する理由ないって話。あまりにも歪すぎる。

区別が差別につながっているのでは?


ちょっと話はそれますが、ポリコレの本場アメリカってなんでもかんでもカテゴライズしている印象があって、その気質が余計に差別を助長しているように見えるんですよ。

アニメとかの創作物にもそこに人が描かれているといちいちこいつは白人だの黒人だの、日本人は白人にあこがれてるなぜなら日本のアニメキャラクターは白人がモデルだからだのと、とにかく人種というカテゴリに当てはめて考えたがってる。というか、人種という概念を通さないと人を見れないのか、というようにすら見える。

彼らの描くカートゥンもそれは表れていて、人を描こうとする必ずと言っていいほど人種的特徴をとらえたステレオタイプキャラクターが出てくる。アジア人なら目が細くて眼鏡かけてて出っ歯みたいな。

それがネット上の喧嘩や争いの原因の一つになっている…と思う。

それで人外キャラが多いのかなとも。さらにその人外キャラに性的趣向を見出し、それがかなりメジャーであるあたりもそれを物語っているのではないか。いわゆるケモナーが多いのは、そんな人種間のトラブルによる争いやリスクを避けるために、現実の人種というカテゴリの外で創作を楽しむための手段だからなんじゃないか、なんて思う。

スポンジボブみたいな明らかな人間ではないデザインのキャラがやたらとアメリカに多いのも、そのキャラを使った表現が人間を描いている作品に比べると過激な傾向が強いように見えるのも、人外キャラならどの人種にも当てはまらないからからどんな目にも合わせられるから表現できているのではないか。

そんな背景をベースに昨今のポリコレによって、最近は"人"がますます描けなくなってきているのだと思う。ある人種やセクシャリティを描いたり描かなかったり、描き方がほんの少しなにかの琴線に触れただけで人権団体がクレームを入れるから。現在アメコミの売り上げは深刻な低迷に陥っているようだが、その要因の一つであるといわれている。人気のアメコミの主人公たちはほとんどが人間。スパイダーマンもスーパーマンもみな人間だ。

クレームに関しても日本のクレームの比じゃない。訴えられて賠償金を請求されるレベル。戦うにしても弁護士費用だってばかにならない。これでは生活できない仕事にならない。続けられるはずがない。

結果、全員が気に入るものを描かないといけなくなるという状況に追い込まれているのではないか。それであのザマなのでは。そりゃあのディズニーだっておかしくなるってものだ。

一方の日本はアニメキャラクターは単に「かわいい」「かっこいい」「おもしろい」であり、人種という概念はない。

これは日本では日常的に人種という概念をほとんど意識する機会がないためだと思う。あったとしてもファンタジーの世界におけるエルフやドワーフというくらいのもので、リアルな人種、ないしは民族の生活やその文化のレベルまでを体感する環境にはないし、それを明確に描いている作品は非常に少ないか、見つからない。本格的に描こうとしようものなら現地の人間の協力は必須だ。自分たちだけで書こうとしたとしても表面的な部分にとどまる。せいぜい見た目や舞台くらいで、リアルな生活の部分までは描けない。日本に生まれ日本で死んでいく日本人にとっては基本的に多民族的な生活(アメリカみたいな複雑なものなどは特に)を本格的に描こうとしてもやはり環境的にも体感的にも知らないのだから書きようがないのだ。

一説によると日本人はかわいいキャラクターを描いている時は究極的には猫を書こうとしている、なんて面白い話もある。

全てはかわいいかっこいいという形容詞で考える。その元になっているのが黒人とか白人とかそんなことはどうでもいい。

かっこいいところ、かわいいところ。より良い、面白いと感じるところがあるなら取り入れてキメラ化する。それが日本人の文化なのだ。

そもそもよく見てみぃよ、アニメキャラの顔をよ。白人の顔でも黒人の顔でもアジア人の顔でもないだろうに。

もしアニメキャラのモデルが白人なら北米版マルシルが一番近いよなあ。


でも実際のアニメキャラの多くはそうじゃないだろ?正面から見ると薄いのに横から見ると深くみえたり、鵺みたいなもんだ。顔の形も丸くてごつごつしてる白人のそれとは似ても似つかないじゃないか。

結局、アニメキャラはあらゆる人の顔の中から見出した"いいパーツ"を組み合わせて角度やら見え方によって切り替えて描いてる。そこにさらに作者の癖で表現されとるというだけのことだ。

そもそも、人種云々の話自体がクソどうでもいい話なのよ。

大事なのは面白いか面白くないか。まとめればすべてはそこ。作者も読者もそこは共通だからそもそも人権云々で訴えるとか人権侵害だという発想にならない。そんな余計な気遣いに気力も工数も割かなくていいから純粋に面白いものを求めることができるし、それを基準にして作品の評価もできる。それで売買が成立してる。だからクオリティも上がって、文化の壁すら超えて海外ですら面白いと思えるような作品が作れるのだと思う。

ごくごくシンプルな話よ。そんな日本じゃ当たり前すぎて言語化する必要すらないことだがどうやらアメリカ、西洋はもう違うみたいだ。

何でもカテゴライズ化するのも考え物


日本で育った日本人の自分からするとそういった彼らのカテゴライズ志向は時にめちゃくちゃ奇妙で面倒なことしてんなって印象だ。その代表格である「人種」って考え方がまずそれ。人種っていう考え方にしがみついてすらいるようにすら見える。これがないと自分に自信が持てないとまで言っているようにすら見える。もはや人種による対立にしがみついてすらいるんじゃないかってくらいに。なんでだろうね。

その派生といってもいいのがポリコレ。もういくつ種類があるんだよ、ってくらい量産されてるよね。そうやって細かく分別してカテゴライズ化することでむしろ分断の要因にもなっているんではないかと思う。

今までいい感じに隠れて、はっきりさせないで無意識で付き合えていたのが、はっきりさせてしまったことで却って分断を招いているんじゃないか?

もちろん、カテゴライズ化することでモデル化したものをもとに自分を客観的に理解するってこともできるから悪い話ばかりでもないとは思うけれど。無意識的な自分の思考に気づく上では有益だから。

クリエイティブの領域でも有効に働いているケースはいっぱいあると思っていて、例えばforgotten realmsなどに登場する様々な種族たち、世界設定、RPGの数えきれないほどのロアに関するその詳細な設定の制作は多分このカテゴライズ気質が無かったら生まれてなかったのではないかと個人的には思う。コテコテに設定がこったRPGのほとんどはアメリカ生まれだ。

分けるだけならいいさ。それをもとに何かを作って誰かを楽しませようってなら大歓迎。

で、ここからが問題。このカテゴリ化した何かに当てはまる自分、モデル化された何かを理解するように、優先するように、特別扱いしろと他人に迫って強制しているところ。今のポリコレはまさにこれ。

そりゃ反発が生まれるに決まってる。自分の宗教を別の宗教で批判されたり、自分の信じている神を別の神で否定されたら反発があるのと同じ。誰かの大事にしているものを自分たちの信じる何かの元に土足で踏み荒らして否定して改宗をせまってるわけ。

今回の件に関しちゃ日本の歴史を自分たちの妄想を史実だとして文化侵略すらやってる。

宗教戦争も多分根っこは似てるんだろうな。そうしてそこで生まれた反発が新しい差別感情にもつながる。ポリコレはクソからのゲイやレズはクソ、LGBTはクソってな。

そうやって自分たちで新しい差別を量産してるようにしか見えない。

本当に迷惑してるのはこれまでそんな思想なしでも生きてきた"普通"の人々だ。セクシャリティがストレートかどうかの話じゃないぞ。ゲイでもバイでもなんでも、他人に迷惑かけずに仕事をしてたり、時には人を楽しませたり自分を表現して芸能の世界で生きている人だっているんだ。

その人なりに社会の中で努力して生きてきた人たちのことだよ。

そういう人たちに新しい偏見の目が向けられることを考えたことはないのか?それともたとえ自分たちの囲ってるセクシャリティに該当する人であっても、ポリコレの思想に賛同しないならどうでもいいのか?

ぶっちゃけ他人の人種も性的自認も興味ないんじゃないの?

結局さ、興味があるのは自分のことだけなんじゃないの。

自分が得する何かだけに関心がある。それが本音では?

そうでなきゃ自分たちの人種やセクシャリティで、メジャーといわれているほかの人種やセクシャリティを否定したり、排斥するなんてことはできないでしょ?

生理的にできないはずだ。もし本当に他人のことを想ってやってるというのならね。みな平等を掲げているならなおさら。誰も特別扱いしちゃいけないなら自分たちだってそれは当然当てはまるはず。

でもそれをやってんのよ、どういうわけか。だから矛盾してる。おかしいんだよ。ルーサーキングの言っていたこと忘れたのか?目指すのは平等であって自分たちを特別扱いすることじゃないっていってただろ。

誰にでも選ぶ、挑戦するチャンスは与えられる。実際それはあるよな?勉強するチャンスも、教育を受けるチャンスも、何かに努力して積み上げるチャンスならだれにでもある。今どきならインターネットでタダで勉強だってできちるわけだからね。

結果の平等ではなく機会の平等ってことだよ。誰でも同じ結果が得られるわけじゃない。それは当人の適正と努力、積み重ねで変わるものだ。

そしてうまくいかなくてもあきらめない心も。努力する忍耐力、積み重ね続ける強い意志。それによって想像もできないくらい時間と労力をかけたもの。そういうものが作れるか作れないかがまず前提だ。

そしてさらにその先にある成功は単に資本主義の話で、需要と供給ってだけ。努力すれば必ず報われるってわけでもない。

というかほとんどの人が報われないのさ。99%以上が凡人なのが世の中なんだから。人種もセクシャリティがどうであっても同じことだろ。

どんなにがんばっても、最終的なところははっきりいって、ほとんど運なわけだ。

でも資本主義社会においては、それこそ平等ってもんだ。

でもおたくら、そんなの関係ないといわんばかりにセクシャリティのフィルターが最優先されるべきだとかおっしゃるわけだ。それも自分らの囲ってる人種だけをね。

完全にすっ飛ばして、そのうえで自分たちを"少数派だから"というロジックで最優先しろ、与えろととのたまうわけだ。

それを平等とはね。片腹痛いわ。ファシストと変わらんわ。

そもそもそうやってそのポストに座ってさ、その責任果たせるの?

そのポストに座れればそれでゴールだとか思ってる?なわけないだろ。そのポストが一体どうやって作られたか考えてみたことある?

それは今まで支持してきた人たちがいたからじゃないか。

ファンがいたからだろ。

作り手の労力はもちろんそうだ。この人らがいなければそもそも生まれもしないから。でも作り手が作ったものを支持し、買って支えてきたファンがいて支援があったからこそできたことでもあるんだぞ?

じゃぁなぜファンは支持していたのか?お金を払ってまでさ。

作り手がファンのもとめる欲しいものを作っていたからだろ?ファンの期待にこたえ続けたからだ。自分の正当性やら崇高性やらを証明するためなんかじゃない。

「これおもしろかったなぁ、次も期待してるよ!」って。

だからお金を払うんだ。

その責任を果たせるかって言ってるんだ。ファンが求めるものを作れるか、ファンがお金を払ってでも欲しいものを作れるか。作品を壊したり台無しにしたりしないものが作れるか。

それができなきゃ誰も買わないんだ。つまりお金はもらえない。せっかく奪ったそのポストもすぐに信用を失ってだれも見向きもしなくなる。稼げなくなる。例えば漫画の作者に興味があるから漫画を買うんじゃない。漫画が面白いから漫画に興味を持ち、そこから作者に興味をもつことがあるってだけだ。

ファンはポストに金なんか払ってないしどうでもいい。ファンが金を払うのは、あくまで実際に生産された成果物なんだから。

エンタメだけじゃない。スポーツでもビジネスでもなんでも同じことだ。もしトランスジェンダー女性が女性の競技種目に出ることが当たり前になったら?ほとんどの観客は見なくなるだろう。そしたら金も入ってこない。そんな仲良し結社のお遊戯事なんて見たくないんだ。正々堂々と勝負して、同じ条件のもとに競い合うことに面白さがある。そこにみんな共感する。興奮するんだよ。

チーターとなんて誰とも闘いたくないんだ。只の興ざめ。チートと変わらんものなんて誰も見たがらないんだよ。

ゲームでもみんなそうじゃないか。

勝てりゃいいって話なんかじゃないんだ。その次につながらないんだよ。

つまりそうやって何者かになれたって、すぐに何者でもない自分に戻るだけってことなんだよ。裸の王様になるだけだ。下手すりゃ石投げられて追い出される厄介者のような思い描いていたものと逆の何かになっちわうな。

全くこのありさまじゃぁ、偽善だって言われても仕方がないよ。ハゲタカと変わらん。散々かき回してぐちゃぐちゃにするだけ。

自分たちを特別扱いしろ、でもその責任は果たさない、私たちが救われれば後はどうでもいい、あとのことは知らんってさ…

ただのジコチューだろ。

のちに「弥助は同性愛者である」、という情報が出てくると、その真意はともかく手のひら返すように拒絶反応がこれまで黒人侍賛成派にもではじめたように、自分のことを認めろ、平等性を認めろとは言うが、自分からみた誰かの異質なものを全部認めようだなんてことはしないことがわかる。

他人にそれを求めながら、自分が気に入らないものは受け入れられない。

そりゃそうだ。

結局好き嫌いあるんだし。それが本音でしょ?

でもそれ自体は全然間違っていない。好き嫌いの部分においてはね。

なにかを好き、嫌い、かわいい、気持ち悪い。

全部自然な自身の欲求だ。それはどうしたって打ち消せない。打ち消せるというのなら、睡眠欲も食欲も性欲だって消したり否定できなきゃならない。それをできることだ、だからやれというのなら、今日からほかの生物や植物を食らって命を繋ぐことをやめなきゃならない。

できるわけないだろそんなこと。そして何より君らがそれをやってないんじゃないか。やってないから生きてるんだろ。

ほかの生物の犠牲の上に自分が成り立っているっていう現実はまさに自分が自分本位であることを証明しているじゃないか。

つまり自分本位であること、自分の趣向や価値観をポリコレで否定しなければならないと押し付けるのなら、生きることをやめろって言ってるのと変わらないってことだ。

なのにそれを否定して、なかったことにして、汚い何かのように扱って、偽善を迫る。

なんで興味もないことに興味を持たないといけないことになってる?なんで他人の全部認めて好きにならなきゃいけないことになってる?

なんで他人の精神的な世話をやくことを当然かのように言ってる?なんで性的自認や人種のマイノリティーさでそれを強制できるようなことになってるんだ?

自分たちができもしないことを他人はできて当たり前だと?受け入れろ、それが当たり前だというのなら、そっちはどうなんだ。こっちのセクシャリティやら人種やらを受け入れているのか?平等なんならそれをまずやるべきだろうに。なのに実際にやっていることはその真逆にしか見えんのだが?

何でそこまで自分の世話を他人にさせたがってるんだ?要介護か?

何でもかんでも他人があなたがに気を使うことが当然だと?他人をあなたがたの過保護なかーちゃんだと思っているのか?

こんなものただのエゴだ。自分を「いいひと」だと演出するために"ガワ"をきれいに見せているだけで、本音の部分は隠しているだけ。結局その人間という性質から逃れられていないというのに。そして"ガワ"のために多くの他人の価値観をないがしろにしてもいい、何ならその権利すらあると思い込んでいるわけだ。


結局さ、この話って人の目気にしてコンプレックスこじらせてるってだけなんだよ。ねじれた承認欲求。

自分に自信がないんだ、自分が嫌いなんだ。自分を自分で好きになることが恐ろしくてしょうがないんだろ。

嫌われたくない、愛されたい、孤独が怖いんだ。themだのtheyだの代名詞にすら群れることに執着する徹底ぶり。ただの群れる理由が欲しいだけ。群れる正当性が欲しいだけ。親に自分の背中を見守ってもらいたい欲求と似てると思うわ。その親の代わりを他人やイデオロギーに求めてる。

そうやって自分の認知のゆがみの原因を他人に押し付けてるってだけだ。

だから孤独にならないための絶対的なものが欲しい。孤独にならないことを保証できる強力な何かが欲しい。それが本音だろう?それがポリコレ使って欲しているものの本音なんじゃないか?

要はガキってことなんだよ。人種とかセクシャリティ以前の問題だ。いじめと同じ。いじめだって同じようなロジックで起きてる問題なんだから。おびえているから群れる。怯えているから他人を先に攻撃にせずにはいられない。その衝動を抑えられない、その衝動、恐怖に屈してやる行為なんだから。

弱虫なんだよ。こんなことやるやつなんて。

クソガキが構ってほしくて暴走してるだけ。大人になることから逃げてる。

孤独を受け入れて自立して、自分で積み上げることからね。

まったく…いい大人がまるでがきじゃ。

最初はポリコレは自立の運動だと思ってた

私は最初、ポリコレは自分がマイノリティだろうが何だろうが自分を自分で認めて自信を持って生きていこうっていう活動だと思ってた。

だから「そうなんだ、がんばれよ」と思ってたんだ。大変だろうしつらいこともあるだろうけどと。

散々親や他人に甘えて、自分の思い通りに動いてくれて当たり前だと思い込んできた人間が、それを間違っていたと受け入れて、誰一人自分の思い通りに生きてないんだと受け入れて、結果として自分のことは自分でどうにかしなきゃいけない、という孤独を受け入れることになるのはバチクソにつらい体験になると思うから。

少なくとも私は経験済だからそう思う。死ぬほど甘えていた人間だったからこそそう思う。そしてそこから抜け出すことの地獄もその先にある価値も十分すぎるほどにあったことも体験済だから知ってる。

だからもしそのような運動だったなら素晴らしかったと思う。世界ももう少し違うものになっていただろう。もっと面白いものだって生まれていただろうし、今みたいな分断も侵略も騒動も起きなかっただろうと思う。それが当時自分がイメージした理想の多様性の世界だった。

ようするに「自立しようぜ」って運動だと思ってて、それならほど素晴らしいもんはないなと思った。

でも現実はただの押し付けだった。

自分たちを変えるのではなく他人を変えようとする運動だった。ただの支配運動だったんだ。ただの依存の口実。他人に愛してもらいたいだけ。認めてもらいたいだけだ。そのために他人の趣向すら否定し、支配してポリコレに準拠しない人間、受け入れない人間はつぶすといって脅迫すらしてくるようなものだった。

そんなポリコレの正体自体にはすぐに化けの皮も剥がれてとっくの昔に気づいていたんだけど、他人事だし他人は変えられないし変えたいとも思わなかったし海の向こうの出来事としか感じられなかったから自分には関係ないや、と無視していた。

でもこうしてその差別を実際に向けられてそれを体感すると、「あぁこういうことなんだ」と納得した。こうやって踏みにじられて侵略されて、なかったことがあったことになったりするんだと。それで金すら巻き上げようとしてくるんだと。それも平等を掲げる差別とは正反対のスローガンを掲げる団体にそれを向けられるとはつゆほどにも思わなかった。

こんなにお手本のような偽善を自分に向けられるとは想像もしていなかった。

だからそんな"歪な平等"はわたしには必要ない。支持する理由ももちろんない。だからもう支持はしない。

コンプレックスから始まるいびつなイデオロギー

個人の心の問題を棚上げして社会、世界全体の問題にするとイデオロギーが出来上がってこういうことになるってこともあるんだなと最近思う。そこに人種などのカテゴライズと集団心理が合わさったらそれは力になって脅威になる。それを都合よくなんらかの権力者やインフルエンサーに使わる。無意識にそいつらの兵隊になっていて、一部の連中が金を稼ぐための兵隊として攻撃を始めたりする。

無知は罪というけど、まさにそうだ。無知だから自分で考えられない。自分のやっていることを客観視もできない。考えらえないから自分では何も解決できない。自分で解決できることとできないことの境界があいまいになり、何でもかんでも他人に解決してもらおうとして、時には自分は被害者の立場であるという武器すら使ってまでそれを迫る。下手すればそれが当たり前という感覚になる。

そういった無意識的な怠惰は自分を無意識に殺す。自分を無意識に無能である、無力であるとし、自分に自信を持てなくなる。一人で何かを考えたり行動したりができなくなる。そして孤独が怖くなる。
孤独に対する恐怖はそんな無力感からだ。誰かにどうにかしてもらえなければ自分はダメだと思うからこそのもの。
結果、孤独が恐ろしくて群れることしか考えられなくなる。群れるためにはどうするかを考えて縋り付くのは、親の代わりである強力な上位に見える何か、つまり多くの他人を束ねている何らかの権力や権威だ。それらに懐柔、入信してその弱い心を利用される。結果争いが起きて最悪戦争になって…なんてことはもう歴史が何度も繰り返してる。

とはいえ別にイデオロギー自体を悪とするつもりも私はない。勇気をもって権力にあらがったりするときに一人では太刀打ちできない。圧制に立ち向かうためにほかの人の力を束ねるイデオロギーは必要だとは思うから。実際、アメリカの大学は親が金持ちかどうかで進学できたりできなかったり、人種毎に進学可能な定員に違いがあったりするみたいだし、そのために声を上げるというのは大事だとは思う。ただその内訳がどうなっているのかまで考えていくと…、と、単純に個人の問題だけでは片づけるのは難しいゆがみも多く抱えているみたいだからね。

でもそうではない、社会のあきらかに不公平かつ歪なえこひいきの事実がある仕組みを変えるためではなく、単に個人のコンプレックスと承認欲求のヒステリーによって人が集まって出来上がったイデオロギーの場合は別じゃないかと思う。そういうものは歴史的にみてもあんまりいいものにはならないんじゃないかと思う。白人至上主義とかアーリア主義とか、あぁいったイデオロギーがヒステリー起こして最終的にやらかした残虐の数々よ。あれもよくよく見れば個人のコンプレックスが発端。ヒットラーの我が闘争とか読んでると、こじらせてんなーと思う。自分に自信がないから外的に定義された特別な何かに自分を当てはめて気持ちよくなろうとするやつ。そしてそれが汚されないように必死で攻撃してくる人にバチバチ火花とばしてる。それに対抗する別のイデオロギーが生まれて争いだす。自分を肯定するために仮想敵を無意識に作り出していつかそれが本当の敵になる負の連鎖。

ポリコレもそれらと同じ匂いがするんだよ。コンプレックスこじらせた人がヒステリー起こして憂さ晴らしに人々を文化的に蹂躙しているようにしかみえない。そんなポリコレ自体が新しい権力になりつつあって、逆にイデオロギーの元に転覆される側としてみられつつあるくらいだ。

アサクリの中に出てくるテンプル騎士という影の権力者の組織が出てくるけど、まさにポリコレはそれだよ。

UBIはアブスターゴ社になっちまったわけだ。アサシンクリード作ってる会社がまるでその手先みたいな感じだ。ミイラ取りがミイラになっちまってるんだ。

まぁそれはそれで面白くもあるけどさ。これで映画一本作れそうな勢いだ。

まぁ、日本に日本人として住んでる分にゃアメリカのような人種をもとにした社会構造もここにはないわけで、ポリコレ言われても正直ピンとこない。それほどポリコレっていうものは日本の文化にとって遠い。遠いというか、多民族人種国家のアメリカ特有の考え方に過ぎないんじゃないかと思ってしまう。いや、むしろ"人種"という概念自体が西洋特有の考え方だといってもいいんじゃないか。

そんな日本においてポリコレは、外国からの一方的な宗教を押し付けられているというだけのめちゃくちゃたちの悪い新興宗教、つまりカルトの域を出てないと思う。

多分日本はその文化的にポリコレは浸透しないだろうなと思いますね。ただ今回のような文化、歴史侵略は別だけど。こういうのにも何も言わないと、いつのまにか外堀を埋められて賠償だの永住権だのなんだのいろいろ請求されそうで怖い。実際その実績は国内外であるわけで、現在もバチバチもめている地域もたくさんあるしね(例えばイスラエルのアレとか。

ポリコレは信用できない

まとめるとこれは単にポリコレに対する好き嫌いというよりも信用の話。彼らの思想を擁護してもある日崖から落ちそうになった時多分誰も助けてくれないんじゃないかというか、こっちは仲間だと思っていたらあっちは全然そんなことなかったみたいなことが起きるんじゃないかという不信感。結局は単なる宗教支配で大規模な新興宗教、信者を増やして新しい支配者に成り代わりたいだけなんじゃないかという不信感。最悪スケープゴートに使われて終わりなんじゃないか。

とにかくクソ不誠実な汚臭がプンプンするの。純白装って汚物まみれのゲロ以下の匂いがプンプンすんだよね。

日本にキリスト教が渡ってきたときみたいに、救うとかなんとか抜かしてさ、宗教で支配しようとしてるだけなんじゃないかな。

こんなのに付き合っても損するだけ。こういうので得するのは大抵一部の扇動者、権力者だけなんだものね。

ただのパンピーたるこちらからすりゃとにかく疲れるし嫌。こっちはなんも得しない。というかこの思想ね…

くそつまんねぇんだよ。


結局これよ。みんなうんざりしてるんだ。仕事から帰ってきてさ、待ちに待った週末になって「さぁ息抜きするぞ!」って現実の嫌なこと全部忘れてゲームやるなり映画みるなりして空想の世界にひたろうとしたら、いい子の皮かぶり思想を押し付けられて一気に冷める。

どーでもいいって。君らがいい子かどうかなんて誰も興味ないって。君らがすごいかどうかなんて、崇高かどうかなんてさ。犬も食わねぇから。

そういうのは君らの親に言えよ。君らのコンプレックスの根幹にさ。「見て、私いい子でしょ」「僕すごいでしょ」って。だから私をほめて、愛してと。親に言いなよ。

甘えるなら自分の親にしてくれ。

そんなものを赤の他人に押し付けないでくれよ。

押し付けられるのは仕事だけで十分だっての。

いい加減にしてくれ。

こいつらに支配されてるディズニーがそのいい例だよ。みんないい子ちゃん演じてるだけじゃつまらないに決まってる。面白さっていうのは冒険と同じだ。冒険はいつ何がどう起きるかわからない、そんなスリルを楽しんで初めて冒険っていうんだ。多様性だと?だったらそりゃ人間にはいろんなやつがいるってことをちゃんと表現してこそだ。いやな奴も変な奴もきもいやつもなんでもいるんだ。自分とは全然違う宗教、価値観、趣向を持っている奴が無数にいるんだよ。"自分からみて"だ。ポリコレでない人からじゃない。他人事じゃないんだ。ポリコレ勢たちから見たってそれはかわりゃしないってことだ。

誰から見たって他人はみんなへんでおかしい。自分に合わない奴だっている。都合な悪いやつらだってなんだっている。当然だ。でもだから面白いんだろ。そういうのだったら歓迎だ。面白ければね。でも彼らのいう多様性は彼等が選んだほんの一部。その他は存在していないか、いちゃいけないことになってる。それほどに自分と違うのが怖いんだろうけどさ。

そうやってただひたすらに恐れて、無かったことにすらして、ひたすらに気に食わないものを排斥してまるで一つの完璧で潔癖な何かになろうとしている彼らは、なんというかその辺に転がってる無害な石ころにでもなりたいのか、なんて思ってしまう。

石ころなんか眺めて面白いか?その答えは明白だ。

君らはつまんないんだよ。いい子でいることばかり考えてるだけだからな。自分と違う他人にびびって、支配したくてたまらないんだから。

自分のことしか考えてない人間が、人を楽しませることなんかできないんだよ。おびえている人間にクリエイティブな活動は無理なのさ。

つまんないから見向きされない。にも拘らず押し付けている。それもエンタメっていう面白さがすべての業界にすらさ。拒絶されるのも何もおかしかないね。

そんなつまらなくて窮屈なものに支配されたり洗脳されるのもごめんだ。こいつらのこと考えるだけで精神的に摩耗する。だからもうポリコレ関係のコンテンツや人には極力距離を取ろうと思った。わしの人生にはいらん。他人の性的自認やら趣向やらいちいち気にしながら付き合う関係はいらないし、その代わりに自身の自由を捨てることにならくらいなら自分で選んで普通に付き合っていて楽しい関係性を選ぶさ。

というか仲間が欲しいならただ探せばいいだろうが。人を変えようとするよりよっぽど簡単だ。

自分でやりゃいいじゃんって話だ。こんだけもめてるんだからわかるんじゃないか。他人にやってもらうよかずっと楽で簡単だって。

というかなんで自分で作らない?なんで既存のテーマも表現したいものも違う作品に無理やりねじ込むことばかりする?


なぜ侵略することしか頭にないんだ?そのコンテンツがそこまで成熟するに至った文脈、必然性をつぶしてまでねじ込んでくるのは何なんだ?適材適所って概念をご存じないのか?

そんなに地位や名誉が欲しいなら、自分で積み上げて作れっての。

自分が欲しいものが市場に全然ないならむしろチャンスだろ?誰もやっていないなら一番乗りになれるんだから。

それとも本当は誰もこんなの欲しがらないって思ってるから?だったらそりゃ自分の問題だろうさ。自分が作るものに自信がないってだけの話なんだから。

何事もやってみなきゃわからないんだぞ?

要するに、まずは「勇気」をもてって話なんよ。そうすりゃ怯えてヒスって他人にたかる必要もなくなるんだから。



まったくよー

仮に彼らがアジア人をその"サークル"に入れたとしても、そもそも別に彼らの世話もいらないし、自分のことは自分でできるから必要もない。

自分の人生は自分で生きないとね。結局これが一番気楽だし、一番おもろいのよ。

というわけでもう私はポリコレはいいです。

あとがき:「おもしろい」とか「つまらないとか」、そういうのでいいって。

ポリコレの何かに触れるだけも影響を受けることを考えるともう完全にシャットアウトして自分の世界からポリコレの存在を消すのが一番いい気がしてきた。

多分ポリコレに"汚染される"っていうのは"単にポリコレ思想の信者になるってだけでなく、イラついたりストレスたまるくらいまでアンチ化することも含まれるんじゃないか…なんて思う。

ふと自分をちょっと一歩引いてみて振り返ってみたら、ここ最近ずーっとこの件でめちゃクチャイライラしてる自分がいたことにふと気づいた。

アンチもファンの一部といいますし、信者もアンチもポリコレという枠の中でコミュニケーションをとるという点では共通してる。

口では支持していないといっても、行動は思いっきりフォローしちゃってたわけだ。

実際これによる悪影響のポテンシャルは高いように思う。例えばポリコレにいらつきすぎてポリコレでもなんでもない人(ゲイ、バイ、黒人などのポリコレグループ的には該当するだけで、ポリコレに賛同したり支持してはいない人たち。それこそ自分を受け入れて自立している人たち)に頭ではわかってはいてもいつのまにか嫌悪感丸出しだったり態度に出たり言葉に出るようなことがあったら、それでその人達がポリコレになってしまうきっかけにもなっちゃうかもしれん。なんも知らん人がそういうささいなことをきっかけに興味をもって"目覚め"(woke)ちまうわけだ。

つまり、差別を作り出す元凶共の仲間入りを無意識のうちにしまうわけ。分断もみんなこのwokeというスキームで行わてる活動から生まれてるんだから。

(もう「レイシズムインヴォーカー」にでも改名したらいいのに。)

アンチ活動が逆に信者を増やす…炎上商法ってやつだ。アンチ活動って信者は減らないと思うのよね。あちらもムキになってやり返してくるだけで、決して変わることはない。

さらにヒートアップするだけ。信者は減らずしかし情報は確実に拡散されるから、結果どんどん感染していくわけだ。しかも恐怖をあおる形でばらまくから余計感染がしやすい。

そうやって全体の"分母"が増えて誰が喜ぶか?その分母を使って金やら票やらを集める政治家やらインフルエンサーの連中だ。

こいつらしか得しない。こいつらに振り回されて多くの人間に残るのは憎しみとゆがみだけだ。

仮想敵作って敵を増やすの悪循環そのものだがね。連中のマッチポンプの仕掛け網にまんまと引っかかちまった気分だわ。まったく私というやつはなんて無知で愚かなのだ…

なのでもう関心すら捨てる。関心というか、ポリコレというレンズ、フィルターを外しちまえばいい。

「なんかめんどくさそうな人だなぁ」「こいつおもしろいやん」

これでいいわ。人種だのセクシャリティだの小難しい話なんかいらん。

あと「嘘はいかん」くらいか。今回の件でいうと歴史の捏造やダブスタ。道徳も捨てたもんじゃないねぇ。
「嘘つきは泥棒の始まり」。誠実さって大事なんだと再確認できたのはよかった。オーネストウォーク、オーネストペイってね。いろいろ巡りに巡って結局最後はシンプルな答えにいきつくのかもしらん。

嘘つきとは付き合わない。支持しない。買わない。売らない。関わらない。ただし嘘を使って侵略してくるのなら「嘘つくな」と糾弾する。はねのける。これでいい。後の面倒なごちゃごちゃな考えはどうでもいい。疲れるだけだから。

だからな嘘つき共、嘘ついてんじゃねーぞ!

というか自分でもさっきいってたわ。「日本人は形容詞で考えてるだけ」だって。それでよかったんだわ。単純な形容詞に宗教も思想もからみようがない。個人の感性にすぎんのだからね

結局付き合いは個人同士のものゆえ。当事者の自分の範囲の問題故な。そん時に考えればいい。いちいち人種だのなんだの人間全体の規模でいちいち考えるとかくそめんどくさいしな。

端的に言うなら、これまでの自分の「普通」で生きていきゃいいってことだ。世の中があんなクソ面倒なことをやってても、それに追従する必要はない。自分の人生は自分のものだ。自由を捨ててまでやるようなことじゃない。

全く疲れる週末だったぜ…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?