「ガンマウォールの過去、現在、未来」(その1)ボルダリングを始めたきっかけ
◆はじめに
2020年はオリンピックの年。ボルダリングを含むスポーツクライミングは、日本人男女が共にメダルを獲得する華々しい年になる、そんなことを年初は予想していた。しかし、淡い期待とは裏腹に、コロナウィルスの流行でボルダリングジムは営業自粛を強いられ、ガンマウォール熊本も4月から5月にかけて営業を自粛した。6月から営業を再開したものの、当然ながら元の通りに戻るわけでもなく、なぜガンマウォールを始めたのか、やめるべきなのか、続けるべきなのか、続けるとしたらどのような方向性で何を優先してやるのか、ずっと考えてきた。せっかくの機会なので、一人で考えたことを何回かに分けて記録していこうと思う。
◆日常の中の非日常
最初は、ガンマウォールを開業する前に、私(オーナーのシスイ)がどのようにボルダリングに出会って始めたか、その原点を振り返ってみたい。私は東京で会社員をしていた。証券会社の営業マンだ。朝6:00頃起きて、会社のデスクには朝7:30までにつく、夜は早ければ20:00頃帰宅で遅いと午前様だ。計数目標もあり厳しい環境だった。子供も小さく、いわゆる家族サービスも手を抜くことは許されなかった。その中で、最初に見つけた息抜きはスキーだ。スキーの中でもバックカントリースキーは、自然との一体感が最高だった。全てを忘れて、その一瞬に集中できる。生きている実感、自然に生かされているという偶然を感じることが出来るスポーツだ。行けて年に2-3回、朝一番の上越新幹線に乗ってかぐらみつまたスキー場へ向かう。いろいろな都合が許せば赤倉温泉、白馬、ニセコへと泊りがけで行っていた。しかし、それは家族持ちの会社員の日常とは遠く、どちらかといえば、非日常としてのレジャーだ。日常の延長で、それと似たようなものを探していた。
◆Volnyでボルダリングに出会う
そのような状況で出会ったのが、吉祥寺のボルダリングジムVolny(ボルニー)だ。五日市街道沿いの1階にあって、普通に吉祥寺を街歩きやドライブしていれば「何だろう?」ということで目に入ってくる。2010年ころだったので、周りでボルダリングをやっているという人もいなくて、最初はそれなりの覚悟をもってジムに入った。最初は登り方を教えてもらって8級を何本か登って終わった。登る前に「ちゃんとストレッチ入念にしないとケガしますよ」って厳しめに指導されたことは今でも覚えている。そのころは、シーンの黎明期でコアなクライマー中心だった。常連さんは本当に強い人が多かったし、黄色のスクールホールドオンリーのMoonboardをいつになったら登れるのだろう、と憧れをもって強いクライマーを見ていた。私が通っていたのは平日22:00~23:00と日曜日の12:00~13:00の1時間で週1-2回。仕事と家庭に忙しかったから、それしか時間が割けなかったし、仕事のスケジュールも読めなかったので月パスも買うことはなかった。ほぼひたすらテープ課題を時間の限り打ち込んで、登るものが無くなったら、ファイル課題を2-3個触るという日々だった。その当時のホールド替えは半年に1回とか、ゆっくり目のペースだったので、ホールド替えの前にしっかりと限界グレードの課題を落として、新しい課題は数か月ずっと打ち込むということが当たり前だった。そしてボルニー店長のNkjさんとスタッフのKeiさんには本当に良くしてもらった。今でもボルダリングを続けていられるのは、お二人の人柄がポジティブに作用したからだと思う。
◆とにかくテープ課題を登った
そして、その当時から今でも変わっていないと思うのだが、ボルニーの8級~5級は初心者が、ゲームを楽しむように、老若男女問わず誰でも楽しめるようなセットになっている。コアなクライマーと一般市民が、人柄の良いスタッフのコントロールのもと共存している、そんな空間でボルダリングデビューできたのはラッキーだった。そのあと、PUMP、Energy、T-Wall、Rockyと一通り大手のチェーン店を登った。ボルニーの他、よく通ったのはPUMP荻窪、Energy吉祥寺だ。PUMP荻窪はテープ課題の本数が多くて飽きなかったし、Energy吉祥寺は武田店長のウィークリーの教室が良かった。行くのは毎回1-2時間。集中して限界グレードのテープ課題を登った。それ以上にコンペに出たり、外岩にいったり、セッションを何時間もやったりする余裕がなかった。それは、あとから振り返るとレアだったのかもしれない(続く)。