当たり前を疑う
ちょっと前の当たり前が当たり前じゃない時代だ。
稽古場で灰皿投げたらハラスメントで非難の嵐だろうしほとんどの稽古場では煙草は吸えない、どこもかしこも禁煙禁煙、情報を得る手段はテレビや新聞よりもSNSからが主になりつつあり、新型コロナが流行ってからはマスク生活、1人でも体調不良者がいれば舞台はすぐ延期や中止になる。動画配信だけでお金を稼ぐことが出来る人が生まれているし、ロシアとウクライナは戦争しているし、ジャニーズはこれまでにないほど袋叩きにあっている。
世界は刻々と変わり続けている。
ある分野では良い方向に、またあるところでは悪い方向に。
何も変わらない時代なんてものは無いことは知っている。
それでも、当たり前が当たり前じゃなくなる事はひどく自分の事を脆くさせる大きな要素である気がする。
いつだって白が黒に、黒が白に変わってしまうような世界で私が私を見失わないために軸とすべきものはなんなのだろうか。
一つには“当たり前“を疑うことなのだと思う。
正しさの裏にはそれぞれの正義や利益が絡んでいる、多角的に捉えなければ本質は見えないのだと思う。
そして、事実と感情は切っても切れないものだ。
思い入れのある物事や人に対しての身近な話題とそうでないものの関心の度合いや共感度は間違いなく変わる。
災害や事件事故が起きても、それに知っている人や場所が関わっているか否かで人の関心は大きく変わってしまう。
1日の情報量が江戸時代の一年分とも言われている時代。
常に自分にとっている情報を無意識と意識的、どちらも使って取捨選択し続けている。
世の中の流れは「他者をリスペクトする、尊重する」というのがテーマだと思う。
表に出ていなかったLGBTQ+など、SOJIにまつわる偏見や差別を無くそうとするはたらきや女性の社会進出やポストにつく流れの活性化、虐げられていた部分をフラットにしようというはたらきが大きくなっているのだと思う。
恋愛のさまざまな形も近年よく聞く。
ネットで簡単に人と繋がれるからこそ、他者から恋愛対象として魅力的だと思われる人には人が集まるしそうでないとされる人には縁がない、若いうちは働いて落ち着いてから結婚という晩婚化の傾向からも社会の仕組みとしてロマンティック・イデオロギーが上手く機能しなくなり始めていることを感じる。
昔であればお見合いで結婚できたであろう人も、この情報化社会では運良く出会わない限り淘汰されてしまう。
今の風潮は他者を尊重すると言いながら、それが自分のところに不本意な形で回ってくることは誰も望まない。
仕事も恋愛もそれ以外のことも。
例えば“普通の幸せ“を望む親は同性愛者の子どもを頑なに認めないし、人と違う道を進むことを認めない。
幸せな形がまるで全員同じであるかのように思い込んでいる。
選択の自由や表現、思想の自由は誰にでもある。
しかし、なんて無責任な許容なのだろうか。
自分の理想の中でしか許容しないのは、エゴでしかないと思う。
私は浮気や不倫についてはモラルに反すると思っているけれど、自分がポリアモリーであるからこそ“同時期に複数人と付き合うこと“そのものをありえないこととして話されるととても違和感がある。
それは、あなたの中の“当たり前“なだけでそうじゃない形で生きている人間もいるということを少しも考えたことがないのかなって。
わざわざ言ったりしないけど、ハラスメント問題に関心あります、LGBTQ+に偏見ありませんとかそういうスタンスでいる人がじゃあ私みたいなのに会ったときに「それはない、理解できない」っていうのは自分のスタンス崩してないか?大丈夫?って気持ちになる。
いないことにするのもハラスメントじゃないのか。
朝井リョウの「正欲」みたいにマジョリティでない性癖がある人のことを、社会は異常だと排除しようとする。それが自分にとって関係ないことであっても理解できない、気持ち悪いこととして。
でも法律を犯していないのであれば、許容するのが妥当なはずで、しかし自分は嫌悪感があるというのなら見ない近寄らない関わらないようにすれば良くて。
理解できないから制限したり規制するのは浅はかすぎる。そうすることで行き場を無くしたらどうなるかということが分からない、想像力が足りないのだと思う。
つまるところ、自分が知らないからといってあらゆることは身近にないわけじゃないかもよってこととか、自分の“当たり前“が他人にとっては当たり前じゃなかったりした時にその当たり前が凶器になってることを忘れない方がいいってこと。これは自戒も込めて。
当たり前に振り回されずに、しかし周りを受け入れ私を受け入れてもらいながら生きていけるといいよねー。
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