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ソフ、タビタツ。



9月10日10時50分、祖父が旅立った。


仕事帰りの母は、帰宅するなり開口一番そう告げた。
深く、静かな事実がただそこにあった。


享年83際だった。


母から見せられた祖父の“寝顔”は、とても良い顔をしていた。
安らかな顔。
ああ、そう言うのかもしれなかった。
葬式用のスーツに着替えた祖父は、格好良くて、様になっていて。
けれども確かにもう、此処にはいないのだということが。
写真越しに、スマートフォンの画面越しに、それでも確かに見てとれた。


キトクの知らせを受けてから2週間。
わずかだが食事も取れるようになったと聞いていた。
決して楽観していたわけではないのだが、毎日うっすら心配しながらも、もしかして、という淡い希望を抱いていたのも確かだ。
けれども寿命というのは決して、訪れるべき終わりを逃さないらしい。


母は自然の摂理を受け入れるかのごとく静かに受け止めていた。
もう長いことずっと、「おじいちゃんは十分好きに生きたから」と言っていた。
これはネガティブな感情でもなんでもなく、母の中での事実なのだ。



かつて大工だった祖父は、家族を振り回しながらそれはもう自由奔放に生きたらしい。
母いわく“世界中飛び回っていた”こともあるそうだが、仕事のため米軍基地を出入りしていたことなどを考えるとなるほどそれも事実なのだろう。
外を出回るのが好きで、仕事の関係か、あるいは本人の意思だったのかは不明だが、数日間、あるいは数週間も家を開けることもザラだったそうだ。
かつて私たち家族が沖縄の離島に住んでいたころ、叔母に連れられて祖父母が遊びにきたことがある。空港を見て、ここの屋根作ったよ。と祖父は何気なく言っていた。



孫の私から見た祖父は、"自然に生きる人"で、無人島に漂流しても生きていけるだろうな、と思わせる人だった。
いつもポケットがたくさんついている膝丈のハーフパンツをはいていて、これまたポケットのたくさんついたベストを着ていた。そのポケットはさながら四次元ポケットだった。よく日に焼けていて、イッヒッヒと豪快に笑い、ひょうきんでお茶目な人だった。
小学校2年生から5年生の間の3年間。私たち家族は沖縄県の本島に住んでいた。
運が良いことに祖父母の家にも近く、よく遊びに行ったし、よく遊んでもらっていた。
祖父は私と妹と従兄弟を引き連れてしばしば外へ出た。
商業施設とかそういうところではない。
近所の公園とか、どこまでもどこまでも散歩したりとかだ。
けれどもまだまだ自然と緑が色濃く残る沖縄の土地を、“生きる”知識が豊富な祖父と歩き回るのは楽しかった。
私たちは汗だくになりながら炎天下の沖縄を散歩した。
目にうつる樹や植物を見ては名前を教えてくれ、これは蜜が吸えるよ、と言いながら自分が率先して吸っていた。気づいたらいつも長いススキやそのへんの植物を手にしていた。
四次元ポケットからサバイバルナイフを取り出してはそのへんになっているシークワーサーやバンシルー(グアバのことだ)の実を拝借して食べさせてくれた。
所持金は、あればあるだけ使ってしまう。
それが祖母とその他家族の認識だったため、祖父は普段からあまりお金を持っていなかったように思う。実際、ベストのポケットに何枚かの硬貨が入っているだけだったような気がするのだが、それでも、いつだって私たちを楽しませてくれた。
いつも水筒に氷とキンキンに冷えたジュースを入れていて、私たちがバテると飲ませてくれた。大きくて立派な樹を見つけては、その木陰の下で休んだ。


沖縄には様々な果物がある。
団地住まいの祖父母の小さな家に行くと、果物をむいてくれるのはいつだって祖父だった。幼い私たちが遠慮なく食べてもきれいな果肉が次々と出てくるくらい、皮むき名人だった。祖父は親指の爪だけ長く伸ばしていた。果物をむくときに便利だからだ。


祖父はゲームも得意だった。
ドラクエをいくつかプレイしていたし、トルネコのダンジョンでひたすらに遊んでいたのも覚えている。週の半ばに我が家にやってきては週刊少年ジャンプを置いていってくれたりもした。人がジャンプを読む理由は様々あると思うが、私の場合、ジャンプの先輩は祖父だったのだ。ワンピースが始まったばかりのころ、「この漫画面白いよ」と言って教えてくれたのも祖父だった。そんなワンピースのアニメやドラゴンボールの再放送を一緒に見るのも楽しかった。



楽しかった思い出ばかりだ。
記憶の中の祖父は、いつも笑っていた。



今になって思えば、祖父と過ごしたと言えるのは幼少期のたった数年間だけなのだ。
小学校6年生から沖縄を離れ、中学生からはずっと関東に住んでいる私は、それ以降ほとんど沖縄に帰っていない。成人してから祖父に会ったのはおそらく1度だけだ。


それでも、もっと何かしてあげればよかった、という思いは、不思議とわいてこないものだ。
文章にしてしまうと後付け的にその気持ちも感じられなくないのだが、心の本質的なところではそう思っている。(と、思う。)
うまく言えないが、こうして振り返りながら考えてみると、人には一緒にいられる期間みたいなものがあるように思うのだ。
その期間、私は祖父にたくさん遊んでもらったし、たくさんの楽しいことを教えてもらった。
だから、ただただ、楽しかった。
本当に、そう、思うことができるのだ。



「おじいちゃんは十分好きに生きたよ」
母は、自分の感傷を慰めるためでもなんでもなく、しみじみと、かつ断定的に口にした。
「あれだけ好き放題、自分のわがまま放題に生きたのに、今は家族に囲まれてみんなに想ってもらってる。自分に甘く生きたからこそ身体的にはきっと一番苦しいだろうけれど、それでも家族に心配されて、思われて。本当に十分だよ」
それが母の本当の気持ちらしかった。


自由奔放に生き、散々家族に迷惑をかけたからか、実は祖父の味方はそんなに多くはない。苦労した祖母の背中を見て育ったからだろう。母には5人の兄妹がいるのだが、その兄妹の多くが祖母寄りだ。そのため、祖母寄りの子供たちからは『まったくもう』みたいな深めの呆れを抱かれていた。
それでも、有事の際には全員が真剣に祖父のことを考え、献身的に介護し、看病した。
私が、もっと何かしてあげられたら……と思わずに済んだのは、それだけ叔母たちや従兄弟が全ての力を尽くしてくれたからかもしれない。



祖父の“寝顔”の写真は、数秒と見ていられなかった。
あまりまじまじと見ていると無条件に泣いてしまいそうだったからだ。
それでもあの安らかな、深い深い眠りの姿が、こうして記事を書いている間に何度も思い出される。


本当に、良い顔だったのだ。


感傷的な方向へ行こうと思えばきっといくらでも進むことができる。
けれども、祖父との思い出を振り返ると、やっぱり、楽しかったなあ、が一番先にやってくるのだ。
楽しくて、たくさんたくさん遊んで、そうして、いっぱい笑った。


だから私は、楽しかったあの頃の思い出を、何度も、何度も思い出す。


照りつける太陽の下、祖父はいつだって笑っている。


ありがとう。






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