主人公は「世界」そのもの、かもしれない『Everything』
文・canavis
『Everything』というゲームがある、この世界上にある全てのものになれるゲームだ、草花、木、石、岩、猿、馬、鳥・・・などありとあらゆるものに憑依して、ゲームをすすめることになる、憑依する方法は簡単、ただボタンを長押しして、気の向くままなりたい生き物を選ぶだけ。
このゲームは、達成すべきゴールは特にゲーム内で明示されず
遊んでいる今現在も、このゲームの目的やエンディング、などが存在するのか?わかりかねている状態でこの文章を書いている
なにが、このゲームを遊ばせるモチベーションになりうるのか?
それは、世界のありとあらゆるものになりつつ、様々な生物とダンスをしたり、彼らの声に耳を傾けたり、時折あらわれる哲学者アラン・ワッツの講義、Lukas Boysenの音楽、それらに合わせて、世界と、世界にまつわる事を考えるきっかけとなる知識に身をゆだねること
・・・それは、ゲームの楽しさなのか?と言わると、乗り越える壁やたどり着く終わりがあるのかわからないので、その楽しさがゲーム的かはわからない。
このゲームをプレイして感じる楽しさは、ストレスを乗り越えることではなく、世界をみる、知ることで
その楽しみはゲーム側がプレイヤーに与えてくれる以上にプレイヤーが自分で感じ見つけなくてはいけない
ゲームのキャラクターではなく、現実のプレイヤーがこのゲームを通して世界の見方をもう一度発見させられる、それがこのゲームの魅力だと思う。
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