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ゲームのリアリティから逸脱する

文・canavis

『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』を少し遊ぶ
ある塔に上り切ったあと操作を間違えて装備していた斧をぶん投げた。

大きな斧は塔の外へ、遠く大地の深い所へ落下していく。

大切、というほどではないが序盤の序盤では大事かもしれないアイテムだ。

ゼルダの伝説、というゲームの物語ではリアリティを逸脱した行為だと思う。

というか、こいつ何をやってんだという感じだ。

その時、リンクというキャラクターがわけのわからない奴に見えて楽しくなってしまったのだ。

リアリティという作りてのラインを超える、と思われる行為をすると、そのゲームが自分のものになったような感覚はある。

『シェンムー 一章 横須賀』の冒頭で主人公「芭月涼」の父が殺されたあとゲーセンに通いまくるといった動きをするプレイヤーがいる。

「芭月涼」という主人公は凄く真面目で彼の性格からしたらこの行為は恐らくリアリティをもった行動だとは思わないのが多数派だろう。

しかし、このゲームはそんな行動も許される、それがゲームの作り手の思う枠の中か外なのかわからないが。

ゲームのリアリティから逸脱してそのゲームを楽しむという行為は、そのゲームの完成度を楽しむとは違うと思う。

それは、ゲームの完成度というかプレイヤーの視点を問われる行為な気がしている。

ゲームはそのゲームの作り手の意図を理解することだけがゴールか?

とう言うとそうでもないと思う、クリアすること、強くなること、でしか語れない事もあるが。

そうでない場所にも語れる余地が沢山あると思われる。

作り手の自由がある一方、まだ、語られていない受け手の自由もあると思われる。

ゲームのリアリティから逸脱して、ゲームを楽しむ自分を楽しむ行為、その受けての自由も語らるべき姿だと思う。

この話題のテーマの元になったgame gameの放送
canavisとred dot01

https://youtu.be/F1g4O4gdgVk

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