日本的なゲームらしさは見立てにある
アメリカのゲームは、丸や三角にキャラクターが抽象化されていていも、ゲーム性さえ面白ければいい。
日本は、ゲーム性は単純にしておいて、グラフィックの面白さとかちょっとした動きの味付けを楽しんでいる。
日本のゲームは悪く言えばゲーム性は二の次に置いて、キャラクターをものすごくリッチにする。
本来はキャラクターがいない、抽象的なブロック崩しやライトシミュレーションが、ビデオゲームの本流だった。
そこに、マリオやインベーダーのようなモノが出てきた。お姫様が攫われたり、宇宙人がやってきたりといった設定が出てきた。
アメリカのゲームの根本にはシミュレーターがある。
一方で、日本のゲームには、イマジネーションがある。
ゲームという言葉のニュアンスの違いもある。
日本に置いては"遊び"の意味合いが強い。
日本語に置ける"遊び"というのは、基本受け身。
一方、本来はルール、試合の意味合いが強く、主体性を、持って何かに取り掛かることだったりする。
ターゲットの主体が子供か?大人か?の違い
マジックザギャザリングと遊戯王の違い
遊戯王やデュエルマスターズ、ざっくり言ってしまえば、マジックザギャザリングの日本版だ。
子供向けの市場に於いては、キャラクターのなりきりが求められるので、主人公やストーリーが必要。
ゲーム販売の主なターゲットを子供として捉えた
日本人特有の文化 見立て
しかし、実は大人の娯楽においても無機質なモノを有機的なものに置き換える文化が、あるのではないかと考えた。
そこで行き着いたのが見立てという文化だ。
何かを表現したい時に、それをそのまま描くのではなく、他の何かを示すことによって表現することである。
砂や石を川の流れとして捉える見立て
扇子を蕎麦をすする箸として捉える見立て
ブロック崩しの無機質なブロックを迫り来る宇宙人として捉えるなんていうのも、日本の見立てとしての発想なのではないかと思う。
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