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ピクシーが帰って来た

ピクシーとは、サッカーのセルビア代表監督ドラガン・ストイコビッチのこと。キリンチャレンジカップでの日本代表との対戦に、セルビア代表を率いて日本に帰って来た。

6年間の中国単身赴任でちょっと食生活が乱れたのか、かなりポッチャリして登場した。※ピクシーは2015年から2020年まで、中国プロリーグ広州富力で監督を務めていました。

ピクシーが初めて日本にやって来たのは、ちょうど27年前1994年の6月のこと。"ワールドカップでも活躍した凄い選手" との触れ込みで、名古屋グランパスエイトに入団したのだ。

日本のプロサッカーJリーグは1993年に始まった。私は自然に地元のチームであるグランパスを応援したが、スタート以来成績はずっと低迷していて、スター軍団のヴェルディ川崎、横浜マリノス、鹿島アントラーズには全く歯が立たない体たらくだった。

ヨーロッパの凄い選手が極東の弱小チームに来る。うーん、きっと何か裏があるに違いない。故障持ちだとか極端に性格が悪いとか‥ そんなふうに疑っていた。グランパスは初年度に元イングランド代表のゲーリー・リネカーを獲得していたが、既にピークは過ぎていたのか、プレーに一片のきらめきも見られなかった。

そんなふうに "眉に唾を付けて" 見ていたピクシーのJリーグデビュー戦。案の定のそれ以上が起こった。試合開始から18分の間にイエローカードを2枚もらい退場となったのだ。これぞ "目が点になる" というやつ。私は「ほらね。性格激ワル! はい、思ったとおり」と落胆した。

前代未聞のデビュー戦ではあったが、その後すぐに圧倒的な格の違いを見せつけ、試合で大活躍するようになった。しかし、めったに笑顔を見せることはなく、いつも何かに怒り、イライラしているように見えた。

慣れない異国の暮らしと、Jリーグのレベルの低さが不機嫌の理由だと思っていたが、その時の母国ユーゴスラビアが置かれた状況に、深く心を痛めていたことを後に知った。選手として油の乗り切った時期にもかかわらず、ヨーロッパを離れたのも同じ理由だったのだろう。

翌1995年は名将ベンゲルを監督に迎えてチームは強化され、ピクシーのプレーも切れに切れた。リーグ戦を制することはできなかったが、年末から年始にかけての天皇杯は、"名古屋グランパスエイト最強の時" だったと今私は断言する。

準決勝で宿敵鹿島アントラーズを 5-1で下し、決勝のサンフレッチェ広島戦は 3-0と完全に相手を翻弄して天皇杯を勝ち取った。※この決勝戦に、広島では森保一が先発出場しています。日本とセルビアの今の代表監督が1996年天皇杯決勝で対戦していたのです。

ピクシーの才能は抜きん出ていたが、決してプレーは "我がまま" ではなく、味方の選手の特徴をよく理解してそれを活かし、自分も味方に上手く活かされていて本当に素敵だった。小倉隆史、森山泰行、平野孝、岡山哲也、中西哲夫等々、ピクシーに試合の中で育てられた選手は枚挙にいとまがない。

あの頃のグランパスは強くて、見ていて楽しかった。私はピクシーのおかげで、よりサッカーが好きになったし、より深く知るようにもなった。

プレーぶりからピクシーは人格者だと分かる。かつてのユーゴスラビア代表監督イビチャ・オシムは「彼は人を動かして自分も動く。セルフィッシュではなくコレクト (正しい) な選手だ」と評している。  名門レッドスター・ベオグラードでは人間性が評価されて21才でキャプテンを務めている。

彼の来日の裏事情を疑い、デビュー戦の退場で目を点にして "変人" "悪人" を確信し、きっとたくさん悪口も言ったはずだ。どうやら私の目は節穴だったようだ。ピクシーとそのご家族に心よりお詫び申し上げる。  ‥拝‥

来年のワールドカップカタール大会で、セルビア代表を率いて采配を振るうピクシーを見られることを期待します。できればもうちょっと痩せてカッコいいピクシーが見たいが‥‥。

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P.S.  もう一つ書いておきたいことがあった。2000年8月のある朝、新幹線名古屋駅上りホームでピクシーを見かけた。短パンにサンダルの軽装で、荷物はサンドイッチと飲み物が入った小さなコンビニ袋だけ。散歩にでも行くかのように、東京行きのぞみに乗り込んだ。そしてその夜、宮城スタジアムで行われたJリーグオールスター東西対抗戦で大活躍。MVPを獲得してしまう。カッコ良いー!



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