士師記15章

「しばらくして小麦の収穫のころ、サムソンは一匹の子山羊を携えて妻を訪ね、「妻の部屋に入りたい」と言ったが、彼女の父は入らせなかった。


父は言った。


「わたしはあなたがあの娘を嫌ったものと思い、あなたの友に嫁がせた。妹の方がきれいではないか。その妹を代わりにあなたの妻にしてほしい。」


サムソンは言った。


「今度はわたしがペリシテ人に害を加えても、わたしには罪がない。」


サムソンは出て行って、ジャッカルを三百匹捕らえ、松明を持って来て、ジャッカルの尾と尾を結び合わせ、その二つの尾の真ん中に松明を一本ずつ取り付けた。


その松明に火をつけると、彼はそれをペリシテ人の麦畑に送り込み、刈り入れた麦の山から麦畑、ぶどう畑、オリーブの木に至るまで燃やした。」


士師記 15:1-5



「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。


昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。


信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。


(中略)


信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。


神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。


(中略)


これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。」
‭‭ヘブライ人への手紙‬ ‭11:1-3, 6, 32‬



士師サムソンの物語の続き。


サムソンはナジル人でありながら、ぶどう畑に近づき、異教徒を嫁にし、獅子の死体という穢れたものに出来た蜂蜜を食べ、賭けに負けた際に賭物をいわば強盗殺人で手に入れ(士師記14:19)るという


「信仰とはいわば道徳、倫理の言い換えです」


というような現代的、理知的な信仰理解、通俗的な信仰理解に対してかなり揺さぶりをかける人物でありながら、新約のヘブライ人の手紙では信仰の模範者の一人として言及されている人物である。



「人は行いではなく信仰によって義とされる」「正しい者は一人も居ない」というドグマをキリスト者は派閥に関わらず大なり小なり信じるが


サムソンに限らず、自分の娘をいわば人身御供として焼き尽くし、かつ敵対する部族にいわば虐殺を行ったエフタや、他人の妻を寝取るためにその夫を殺したダビデ、そして前述のサムソンなどが新約の書簡において"信仰者"として言及されているのにはかなり程度以上の違和感があるのではないか。



信仰とは倫理や道徳の言い換えに過ぎないのだろうか。それともそうではないのだろうか。


倫理や道徳という、いわば一度組み上がってしまえば生きている神の存在を抜きにしても成り立つような生命無き単なる装置と等しいものが信仰だろうか。


時代を問わず、人も選ばず、状況も考えず、どこの誰にでもいつでも当てはまる倫理公式をいわば発明し、それに応じて生きること、問題を投入すれば自動的に返ってくる答えに従うのが信仰者の生き方なのだろうか。



士師たちと、自らの息子をいわば人身御供として捧げようとした"信仰の父"アブラハムは現代的な信仰理解にかなり重要な疑問を投げかけているのではないか。



一般的な倫理観に背を向けて生きるという意味で、中心から見た場合、聖と穢れという周辺の人々は似たようなものになるだろうが、偶像という見えるものを見るのか、それとも見えないものを見るのかという所に根本的な違いがあるのではないか。


そしてこの穢れと聖のある意味での類似性については、士師記においてもサムソンの物語の後の第17章からラストに至るまで、士師記全体の約1/4を占めるダン族の物語とベニヤミン族の物語において極めて重要なテーマとなる。

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