ガラテヤの信徒への手紙 2章
わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙 2:19-20
イエスは答えて言われた。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。
「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」
ヨハネによる福音書 3:3-6
ダマスコ付近でキリストと共に死に、新たに生まれたとも言えるパウロは啓示やキリストの霊について頻繁に語る。
本章においても同様である。
一般的には唯一の神の霊に導かれる人というと、どのような時、場所、状況、共同体においても同じ態度を示し、同じ言葉で語り、同じ振る舞いをする人なのかもしれない。
が、パウロは本章において「啓示によるもので」十四年ぶりに他の使徒たちと会い、使徒言行録15章に記されているエルサレム会議へ参加する。
そのエルサレム会議においてパウロは「自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求め」る。
また、会議において「彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知」る。
つまりは唯一の神の霊が働くとき、それはいついかなる状況でも単一の働きをすると言うよりは異なる働きをするのではないか。
同じ唯一の神から与えられる賜物はそれぞれ異なるからである。
同じ唯一の神から与えられる異なる賜物の働きが、キリストという頭により調和に至るのではないか。
:使徒言行録 9章
:ガラテヤの信徒への手紙 2:2
:ガラテヤの信徒への手紙 2:2
:ガラテヤの信徒への手紙 2:7
:割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。
ガラテヤの信徒への手紙 2:8
:わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。
また、教える人は教えに、 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
ローマの信徒への手紙 12:6-8
:教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
エフェソの信徒への手紙 1:23
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