見出し画像

列王記上19章/手で覆われて、ささやくように、鏡の向こうに

古代イスラエルは出エジプト後、「主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅(申命記 8:2 新共同訳」を経て神と契約を結び
本章において「四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。(列王記上 19:8 新共同訳」エリヤは神と出会う。

キリストは40日間荒野で誘惑を受け(ルカ4:1参照)
またモーセは神との契約際に「四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。(出エジプト記 34:28 新共同訳」

荒野の40年という共同体の物語は個人、つまりはモーセやエリヤ、キリストなどに適応される。
試練の時である。

出エジプトという"奇跡"を経験した古代イスラエルはその後に荒野を40年彷徨い
エリヤはバアルの預言者を打ち倒す"奇跡"を行った後、ホレブ山まで40日の旅路を行き
キリストは洗礼と聖霊を受けた後(ルカ 3:21-22)、40日間荒野で誘惑を受けた。

前章においてエリヤはバアルの預言者たちに勝利する。
エリヤは奇跡を起こすが、バアルの預言者たちは奇跡を起こせなかった。
めでたし、めでたし。神の勝利だ。

…とはならない。
わかりやすい物語では出エジプトが、敵対する預言者たちとの奇跡を起こせるかどうかの戦いに勝利したら、洗礼を受け聖霊が降ったらそこでエンドロールが流れる。
が、聖書はそうではない。わたしたちの人生は別にそのように構成されていないからである。
試練はその後に来る。

では彼らはどのように神と出会ったのか。

・モーセ

また言われた。
「あなたはわたしの顔を見ることはできない。
人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
更に、主は言われた。
「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。
あなたはその岩のそばに立ちなさい。
わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。
わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」

出エジプト記 33:20-23 新共同訳

・キリストの弟子たち

ルカ書9章でキリストと弟子たちはエルサレムに向けての旅の中、"山"に登る。
そこでキリストの変容が起き、弟子たちはモーセ、エリヤと語り合うキリストを目撃する(ルカ 9:30)。
そしてペトロたちは神と出会う。
その出会いはこうである。

ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。
彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

ルカによる福音書 9:34-36 新共同訳

・本章

エリヤは"ホレブ山"で再び神と出会う。
その次第はこうである。

主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。

見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。
主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。

火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。

列王記上 19:11-13 新共同訳

・書簡

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

コリントの信徒への手紙一 13:12 新共同訳

わたしたちは神、あるいは善そのものをこの世で見ることはないだろう。

それはモーセに語られたように、目にして尚人間が生きることはできないようなものであり
キリストの弟子たちが山で見たように、それを理解し伝えようとしたところで「自分でも何を言っているのか、分からな(ルカによる福音書 9:33 」いようなものであり
本章でエリヤが神と出会ったように、それは偉大な、目を奪うような目に見える巨大な力の中には無いものだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?