サムエル記上 20章

従者が帰って行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。


彼らは互いに口づけし、共に泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。


ヨナタンは言った。


「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。」
サムエル記上‬ ‭20:41-42‬



兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。


ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。


律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
‭‭ガラテヤの信徒への手紙‬ ‭5:13-14‬



サウル王に命を狙われ続けたダビデは放浪の旅へと赴く。その契機となる章。



ダビデはサウル家の跡取り、王朝の後継者となるはずのヨナタンと深い友情で結ばれていたが、サウル王はダビデに嫉妬し、彼を殺さない限り自らの王朝が存続しないと考えダビデを殺そうとし続けている。



父の心を新月祭の食卓で知ったヨナタンダビデに対し逃げるよう教え、ダビデヨナタンは悲しみの中、別離に至る。



家としてはサウル家とダビデは敵対しているが、その中でサウル家のヨナタンダビデは友情で結ばれている。



彼らは一つの誓いを立てる。


命懸けで父サウルに背きダビデを救ったヨナタンとその子孫に、ダビデが慈しみを永遠に絶やさないように。という契約である。



わたしとあなた、互いに違うものの間に契約は行われる。この愛の契約は神の名によって誓われ、この互いに違うものが行う契約の中に主が居られる。



この内、外、間の中の神は新約聖書でも度々言及され、創世記においてもアブラハムと神との契約のシーンにおいて、目に見えない神が目に見えない間を通り過ぎる。


:ヨナタンダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、 着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。
‭‭サムエル記上‬ ‭18:3-4‬


:「エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ。


すぐに人をやってダビデを捕らえて来させよ。彼は死なねばならない。」
‭‭サムエル記上‬ ‭20:31‬


:「そのときわたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、 また、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないでほしい。」
‭‭サムエル記上‬ ‭20:14-15‬


:その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。


神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。


神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。
‭‭ヨハネの手紙一‬ ‭3:23-24‬


:「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」


‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭14:20‬


:主は言われた。


「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」


アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。


はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。


日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。


主はアブラムに言われた。


「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。


しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。


あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。 ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」


日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。
‭‭創世記‬ ‭15:9-17‬


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