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エフェソの信徒への手紙 6章/「奴隷たちよ」

・本記事は何を書くか

南北戦争時の南部諸州をはじめ、あらゆる奴隷制肯定論者が好んで引用してきた悪名高い本章の現代的意義を考え、擁護する。

・「当時の価値観だから?」

奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。
人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。
あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。

エフェソの信徒への手紙‬ ‭6‬:‭5‬-‭8‬ 新共同訳‬

この聖句は奴隷たちを黙らせる口実として奴隷主どもに利用されてきた。丁度、"約束の地"に関する聖句がシオニズムに利用されてきたように。

出エジプト記には悪辣な王ファラオに虐待され、自由も生命も奪われていたユダヤ人たちがエジプトを脱出する様子が描かれている。

国無き民、ユダヤ人たちはモーセの死後、ヨシュアを指導者としてパレスチナへと集団移住するが当然ながらそこは無人の地などではなく、先住民たちが居住している。

ユダヤ人たちは先住のカナン人たちと戦い、虐殺し、虐殺され、奴隷にし、奴隷にされながら約束の地を征服していく。

ユダヤ人たちという社会集団はファラオという奴隷主からは解放された。が、人間が奴隷という存在を必要とする世の原理は残されたままである。

社会的、経済的弱者の集団が奴隷の身分から解放される。しかし、それでも奴隷がやるべき仕事は残る。奴隷、つまりは自由で尊厳ある人間がやるべきでないような仕事は残り続ける。

・「奴隷制はもはや存在しない?」

わたしは介護福祉士でありケアワーカーである。また同居の母が癌患者であるため家内労働の主たる担い手でもある。

現代においては奴隷制は存在しないとするのが建前ではある。が、技能実習生、不法移民、経済的社会的に劣位にあるマイノリティに奴隷の役割を代替えさせ続けているだけなのではないか。

ケアワーカーという言葉があるが、これは言い換えるならば家内奴隷である。
彼らが福祉国家や富裕層という主人から与えられる役割は基本的に「風とともに去りぬ」に登場した黒人乳母のものと変わるものではない。
薔薇という花をなんと呼ぼうが香りはそのままであるように、奴隷的な労働をなんと呼ぼうがそこに漂う臭いはそのままである。

奴隷主のファラオを100回海に沈めようと、奴隷として虐待されていた社会集団が5000回エジプトを脱出しようと、少なくとも幼児、障害者、病人、老人等といったケアを必要とする人間が存在する限り、社会は奴隷制の問題から逃れられないのではないか。

・神を待ち望む

福祉国家はイデオロギー上の理由から、富裕層は単なる必要性の問題からケアワーカーを必要とする。

幼児を、障害者を、病人を、老人をケアする人々が必要とされなくなることは世の終わりまで無いだろう。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置く。
そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。
『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭25‬:‭31‬-‭40‬ 新共同訳‬

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