列王記上20章/「彼らの神は山の神だから」
本章で古代北イスラエル王国は異教徒であるアラム人たちの連合軍と戦い、勝利する。
異教徒であるアラム人たちはその敗北について次のように解釈する。
この定義、つまりは「主とは山の神である」は妥当だろうか?
これはいくらでも批判できるだろう。
確かにモーセはシナイ山で十戒を授かり(出エジプト記 24:12)、キリストは山の上で説教し(マタイ 5:1-2)、山の上で変容したが(マタイ 17:1-2)、そこは本質ではないからである。
では、主とはどのような神なのだろうか。
・愛の神
「我らの神は愛です(ヨハネの手紙一 4:16)。神は愛であり、愛そのものです。」
「半分は正しいが、半分は間違いではないか。
神は愛だが愛が神ではない。
主は復讐は私がすると語り(申命記 32:35)、詩篇にも復讐を祈る詩がある(詩篇 58:4-12)。」
・赦しの神
「主は赦しの神であり、罪人を招かれる神である。」
「確かに半分は正しいが、半分は間違いではないか。
主は役に立たない人々を陶工が気に入らない作品を砕くが如く打ち壊す神でもあるからだ(エレミヤ 18:1-12)。」
・存在そのもの
「主は"在りてある神"である(出エジプト記 3:14)。このことば以上の定義はないだろう。」
「半分は正しいが、半分は間違いではないか。
確かにこの世界が存在し、私たちも存在している。
この存在の原因を遡り続けるならば第一原因について論理的に行き着く。
この第一原因は存在に先立って存在し、この世界の外にありながらも自存するものである。
これを通常我々は神と呼ぶ。
しかしながらこの第一原因、つまりは神は人格神であることを含意しないし、また当然ユダヤ-キリスト教が観念する神が第一原因であることも含意しない」
・語り得ない
「人間のことばで主を定義する試みがそもそも不可能である。
人間のことばで定義可能なものは語り得る、が、神について語り得るだろうか?
語り得ぬものには沈黙しなければならない」
「レトリックとしては非常に優れており、これを聞いたものに感銘を与えはする。
が、だから何だというのだろうか?
神は語り得ない。これは確かに半分は正しいだろう。
しかしながら真に語り得ず、全くどのような存在なのかもわからないならば"主"ということばは無内容なものと何も変わらないではないか。
私たちは虚空に向かって拝んでいるのか?」
・キリスト
「人間の不完全なことばで主をどのように定義したところでそれは不完全なものとならざるを得ない。
仮に主を定義することばが存在し、かつ、それを人間が知れるならば、それは神の側から人間に対して自らを示した場合だけである。
そしてその場合であっても我々は完全に神を知ることはないだろう。」
「ヨハネ書にはこのように記されている。
私たちは不完全であり、仮にこの世で主そのものを見たとしてもそれを十全には理解できはしないだろう。」
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