第二コリント 1章

神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。


キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
‭‭コリントの信徒への手紙二‬ ‭1:4-5‬



そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。


この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。


そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。


シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
‭‭ルカによる福音書‬ ‭2:25-27‬



慰めである生きている神。キリストとの一致。


キリスト者は洗礼によりイエスと共に死に、そしてイエスと共に復活する(ローマ 6:3-5)


どのような慰めもそれが死に打ち勝たなければ単なる慰撫に過ぎない。最大の慰めとはやはり復活であろう。



第二コリント 1:8-10において、パウロは自らが受けた苦難、「耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしま」った経験と、そこからの救いについて語る。


自分自身ではなく復活させて下さる神を頼りにする信仰である。



パウロのように、あるいは獅子から救われたダニエル(ダニエル 6:21-24)のようには、信仰者がこの世において獅子たちから救われることはなかったとしても、その人々は必ず神からの慰めを受けるだろう。(ルカ6:24-26)

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