雲に隠れて【利尻岳】
「島は、山そのものが島を形づくり、頂きが火山のように尖っているが噴煙は湧いていない。なだらかなに裾をひく傾斜は緑におおわれ、美しい島にみえた」
歴史小説「海の祭礼」(吉村昭)に登場する一節。主人公の米国人青年ラナルド・マクドナルドが利尻島に上陸する印象的な場面だ。稚内からフェリーで島に迫る時、自分もきっと同じような感慨を感じるに違いない、と思っていた。だが現実に目の前に広がっているのはどんよりとした雲ばかり。利尻の由来は高い山を意味するアイヌ語だが、お目当ての山は姿を見せてくれなかった。
会社の夏休みを利用して北海道を訪れることにした。2023年8月9日、日本列島に迫る台風7号から逃げるように北の大地へ。羽田空港から所要約2時間で稚内空港に到着した。空港からはバスで稚内市内のフェリーターミナルに向かう。施設内の飲食店で「ホタテ塩ラーメン」をお腹に収める。本場のホタテはぷりっぷりで濃厚なスープは絶品だった。しばらく施設内で時間をつぶして、利尻島の玄関口である鴛泊行きのフェリーに乗り込んだ。
利尻島に迫った時に想像していた風景はなかった。翌日登頂をめざす利尻岳は灰色の雲の中に隠れている。この日の宿はペンションタイプの小さな宿。夕食は近くの居酒屋で。「ギス子の醬油漬け」や「たちかまバター」など、ご当地っぽいグルメに舌鼓を打つ。「あすは晴れてほしい」と願いながら眠りについた。
午前5時すぎに起床。宿がつくってくれた梅おにぎりを朝食にする。午前6時ごろ宿を出発。空は相変わらずどんよりしている。「利尻北麓野営場」に到着する間際に雨に降られたが、濡れ鼠になることは避けられた。当初の予定ではこの野営場でテント泊をする予定だった。だが雨天のテント泊に直前になっておじけづいて宿に切り替えた。
野営場を過ぎるとすぐに日本名水百選に選ばれた水場「甘露泉」に到着。名水と聞くと飲んでみたくなるのが人情だがためらいが生まれる。北海道出身の知人が「エキノコックス症」(キタキツネなどに寄生する寄生虫が原因の感染症)の危険性について話していたことを思い出したからだ。
結局、名水は素通り。「わざわざ利尻までやってきたのにおじけづいてばかりだな」と自分の冒険心のなさに苦笑が漏れる。
天候不順のなかひたすら山道を登っていく。4合目「野鳥の森」、5合目「雷鳥の道標」、6合目「第一見晴台」、7合目「胸突き八丁」、8合目「長官山」・・・・・・。ポイントごとに立つ標柱を通り過ぎていく。利尻岳は次第に勾配が険しくなる。避難小屋を過ぎてからが正念場だ。疲れが足に溜まってきているが、崩れそうな道は慎重に登っていく。
午前10時45分ごろ、山頂に到着。風雨にさらされている祠と看板がそこを山頂であることを教えてくれるが、周囲は霧に包まれていて展望はまったく望めない。軽食を食べると早々に来た道を下山した。
下山途中には雲の切れ間から山容の一部が顔をのぞかせてくれたが、疲労もあって気持ちは景色より温泉に向かっている。午後2時半ごろ、野営場に戻ってくる。靴の泥を落とす水場や携帯トイレの回収ブースをありがたく使わせてもらう。そこから車道を進み、利尻富士温泉に到着。広々とした露天風呂にゆっくり浸かって17.5キロメートルを踏破した足の疲れを癒やした。
「日本百名山」の深田久弥はこの山について「島全体が一つの山を形成し、しかもその高さが千七百米もあるような山は、日本には利尻岳しかない」とべた褒め。稚内へ向かう船から島を振り返り、「左右に伸び伸びと稜線を引いた美しい山であった。利尻島は利尻岳であった」と最大の賛辞を送っている。
宿に置いたメインザックを回収した後は鴛泊のフェリーターミナルへ。ターミナル内のコーヒースタンドでカフェラテのホットを注文する。近くの漁協直営店で買った「利尻昆布もち」との相性が意外とよかった。鴛泊から稚内に帰還するとすっかり日は落ちていた。次の目的地は「北海道の屋根」と呼ばれる大雪山だ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?