競争の教育から協創の教育へ
大学院のとき修論で久富先生の『競争の教育』を引用し、共同の教育へ、って書くだけ書いたのを覚えています。
けどただのスローガン。
道筋だってやり方だって知識も智恵もないから示せなかったし、教育学を学んだ院生が2年間考えたからといってこれまで学校の先生がされてきていることに対してやってもない人に何が言えるんだ、、、とかなりのジレンマがありました。
当時私は愛知県の大学院に通いながら
神戸の公立のフリースクールに働きにいってました。
まさに新幹線通勤。給料は全部交通費で無くなりましたがそれでも不登校支援の当時の最前線に居たかった。
サラリーマンの方々に感謝して、私はまだ役にたってないし、元気だし、と新幹線の席は空いてないと座らなかった、そんなヘンテコな気持ちで学んだ院生時代でした。
こういう悩みに対しては吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を読むといい、いま、あなたたちが生産的と思えていなくて、周りの仕事をしている友人が偉く見えても、いま学んでいることがいつか社会の役にたつ、安心して学びなさいとそのメッセージを本で伝えてくださった先生のことも思い出します。
社会の役に立てていない、学んでいることは楽しいけれどそれが役にたつかもわからない、その道筋を示せない、そのジレンマもあったけど。
私がやっていることは教育について現状への批判だけで、これがいい、という形を示せない人にそんな研究にひとりの頭でこねくりまわすことに何の価値があるか、と教育学は大好きだけど思っていたことも長らくある。
その時も別の先生がいま行く先を示さなくても現状を徹底的に批判してそこから生まれるものがあるから批判すべきものがあるならそこは徹底的にしなさい。と教えてくれた。
いい先生に巡り会え豊かに学べたけれど
そんな教育を実現させたところで、社会に出るときは既存の枠になり、その教育で学んだ子どもに、しんどい思いをさせてしまう。
今ある社会に合わせてその枠に当てはめる教育が良いとは思わないけども、それを学んだおかげで社会の中で生きにくくなるなんて本末転倒。批判的思考なんて身に着けず何にも疑問に思わずににこにこ生きていけることをはぐくむほうがその子にとってのしあわせじゃないか、な。私が考えている方がおかしいんじゃないかな。
教育は宗教みたいなもん、何が正しいと信じているか、という、話だと思うと言ってくれた人のことを笑ってほんとだー!と思ってた。
ただ、これからの時代はほんとに
いまから大切な力はほんとに。
これさえやってればいい、ともちろん宗教家のように?示せないけれども、
これはあったらあなたの力になる
これがあったらないよりきっとしあわせに生きられる
そういう力をつける場所と道筋が
なんかやっと見えてきたような気がして
それはあの
いま、何ともなっていない、という
大学院時代の学びや
あれだけ学んだのに20年前なんてとっくにわかってたのに、そんな社会にできてなくてごめんなさいと次世代に対して思って来たのとか。
子どもに何を伝えたらいいんだろうと迷ったこととか。
鬱々とした、
ずーっとためてきたものを
別のエネルギーに転化するときが
とうとう
やってきたんだろうなあと思います。
競争の教育から
共同の教育へ。
協同かな?協働かな?
あるいは
共同創造
共創
協創
の教育。
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