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あの有名裁判官も被害者だった…。世界犯罪史上初の一般市民への化学兵器使用殺人事件に迫る。

今年の3月20日で、「地下鉄サリン事件」から28年が経った。

この東京で発生した、他に類を見ない大事件が注目され、世界犯罪史上初の化学兵器を使用した一般市民への無差別殺人事件が風化しつつある。

―――それは、今日で発生から29年目の『松本サリン事件』だ。

『松本サリン事件』は、『地下鉄サリン事件』の前年である1996年6月27日午後10時30分頃~40分頃にかけて、『オウム真理教』によって長野県松本市内の住宅地で神経ガス『サリン』が散布され、死者8名(公判当時は7名。2008年に加療中であった女性が死亡したため。)、負傷者は約600名以上の大惨事となった。

そして、実行犯は麻原彰晃こと松本智津夫を主宰する『オウム真理教』の幹部村井秀夫ら信者で、同じく『サリン』を製造したのも幹部土谷正実ら信者である。


・事件の目的

―――事の発端は、土地争いの民事訴訟
この前代未聞の大惨事は、「土地争い」からだった。
麻原はかねてから、松本市内に教団の食品会社等を設けた道場を建設したいと考えていた。同じくして、A(地域住民)が土木建設業の会社に、松本市内の土地約560㎡を売却したことから、教団は即日購入し、さらにAから隣地の土地約380㎡を賃借りし、計940㎡の土地を得た。

しかし、住民たちが教団の松本市進出を阻止するための反対運動を展開し、その反対派住民にAがいたのだ。
そこでAは、長野地裁松本支部に、教団から十分に説明がされていなかったなどの「錯誤又は詐欺」を理由として、1992年5月27日に教団に対して建設禁止・土地明渡を求めて提訴した。

▷麻原の公判で、検察側が作成した冒頭陳述要旨には、次のような記載がある。
麻原は道場の開設式において、
「現代は、まさに世紀末である。司法官が乱れ、裁判が正邪の判定を正しくできなくなり、・・・地主、不動産業者、裁判所が一蓮托生になり、平気でうそをつき、そしてそれによって今の道場の大きさになったと。・・・これがもし逆にその圧力が加えられている者から見た場合、どのような現象になるのかを考えると、恐怖のため身のすくむ思いである」などと、裁判官にまでも激しい敵意をむき出しにしていたのだ。

麻原彰晃こと松本智津夫の第3回公判(1996年5月23日)で検察側が読み上げた冒頭陳述要旨
(筆者が裁判記録・報道資料等から書き写したものである。)


・犯行の流れ

―――動機は、顧問弁護士の一言からだった。
民事訴訟は、1994年7月19日に判決期日として指定された。
これに対して、教団の信者で顧問弁護士は麻原に対して、「勝訴確実ではない」旨の報告をした。
そうしたところ、麻原は当時完成直後であった化学兵器『サリン』の殺傷能力を確かめるとともに、判決期日を延期させようと考え、実行犯の早川紀代秀や新實智光らに松本市内の裁判所官舎周辺でサリンを散布するように指示したのだ。

―――犯行当日に至るまで。
6月20日頃に、山梨県上九一色村(現:同県南都留郡富士河口湖町)の「サティアン」と称される教団施設内で、麻原は新實らを部屋に呼び、「オウムの裁判がやっている松本の裁判所にサリンをまいて、実際に効くかどうかやってみろ。」と指示し、これを受けて教団は『サリン』を散布する「噴霧車」を製作していた。

同月25日頃には、新實らは当日に噴霧車を運転する端本悟を誘って、裁判所松本支部等を下見して、付近でタバコに火を点火させて風向きなど調べていたという。

―――犯行当日
同月27日の犯行当日、
新實らは『サリン』の注入に手間取り出発が遅れてしまう。
そのため裁判所の業務時間に間に合わなくなってしまい、急遽、裁判所から北に600mにある、裁判官らが居住している裁判所官舎へと標的を変更したのだ。

22時30分頃、官舎裏の西側にある駐車場に噴霧車を駐車させた。
そして、40分頃から噴霧車の噴霧口からサリンが白煙上になって噴出された。

その後、噴霧車に付けていた偽造ナンバーを取り外し、旧上九一色村に戻った。
帰る途中の車内では、麻原に新實は暗号を使って噴霧が無事に終了した旨を報告した。

▷筆者は、実際に現場へと足を運んだ。
現場周辺は、松本市の市街地から中心からやや北寄りで、住宅やマンション、そして社宅が建ち並ぶ閑静な住宅地であった。
松本城から徒歩約8分程で、付近には史跡や小学校、図書館もある。
当時の報道や記事を多数見てきた筆者ですら、世紀の犯罪現場とはとても考えられないが、被害者を出したマンションは当時のままである。

事件当時は、現場から直径400m圏内には、約1,860世帯、約4,300人の住民が居住していたとのこと。

噴霧車を駐車した官舎裏西側の駐車場(筆者撮影)


駐車場横から、裁判所官舎方向を望む(筆者撮影)


―――犯行後の被害
事件当時に駐車場の北側に居住していたBさん一家は、23時前頃に妻が体調の不調を訴え、119番通報をした。その後、妻は長らく加療中であったが、2008年に死亡した。
この事件で、死者は8名、負傷者は約600名以上の大惨事となった。


・裁判記録から

実行犯の新實は、2005年5月20日の控訴審(東京高裁)で開かれた第7回公判で弁護人に、下記のように一連の犯行を厳しく糾弾されていた。

弁護人:「松本サリン事件ですが、この事件について原判決は、第1次的な目的はサリンの殺傷能力を実験することにあって、第2次的な目的は民事事件訴訟の妨害にあったと認定していますね。」
新實 :「はい。」
弁護人:「サリンの効果、つまりサリンの殺傷能力を実験するというのは、この場合松本市の裁判所周辺に住む住民を対象として実験するということになりますね。」
新實 :「はい。」
弁護人:「言わば、一般市民をモルモット扱いにすることにほかならないんじゃないですか。」
新實 :「そうですね。」
弁護人:「この点について、原判決は、一般市民を虫けら同然にその実験道具にしようとしたもので、人命を軽視し人倫に真っ向から挑戦するおぞましいばかりに冷酷、非道なものだと、このように断じていましたね。」
新實 :「はい。」
弁護人:「・・・外形的な行為から見ると一般市民を実験台にしたと、これは人命を軽視した行為だというふうに非難されてもやむを得なんじゃないでしょうか。」
新實 :「そうですね。」

(控訴審第7回公判の公判調書中の被告人質問速記録の一部)

▷新實は、長い尋問からなのか、あるいは現実逃避をしているのか、その後も他人事のような一言での回答が続いていた。 


・有名裁判官も被害者だった。

当時官舎には6世帯15名が居住しており、教団の狙いどおりに、居住していた5名の裁判官らと家族も負傷した。

―――その中で最も重症であったのが、3階に住んでいた判事補(当時31歳)であった。
当時の報道によると、判事補は妻と2人で、夕食で焼肉を食べていたが煙が充満したため、窓を開けて換気をしていたという。そこから、化学兵器『サリン』が入ってきたのだ。

これは、1995年から始まったオウム真理教に対する破防法適用の審理時に提出された、松本サリン事件に関する証拠の一部である。(番号23,27が判事補夫妻)


判事補は44日間、妻(当時28歳)は32日間の加療期間であった。
そして、この判事補もまた教団の民事訴訟の担当判事3名の内の1人だ。

次に重症であった判事は当時46歳で加療期間13日間、最も軽症な判事は65歳で加療期間7日間であり、判事補がどれほど重症であったかが分かる。


―――そして判事補は後に判事となり、数々の有名事件を担当した。
横浜地裁時代には裁判長として、
・2016年7月に発生した、神奈川県相模原市の福祉施設に刃物を持って侵入し、死亡者19名、負傷者26名を出した事件を担当し、被告の植松聖に対して「死刑判決(その後確定。)」を言い渡したり、
・2017年6月に東名高速で発生した「東名あおり事件」でも、
審理を担当した。

その後、東京高裁へ異動となり、今年3月に再審開始決定がなされた「袴田事件」では、裁判官3名の内の1人として担当していた。

そんな、知られた存在であった”有名裁判官”も若かりし判事補時代に教団から被害を受けたのだ。



当時の教団は、松本サリン事件に使用した『サリン』は不純物が混合されてしまっている「殺傷能力の低いもの」と考えており、危機感が非常に薄い。
ましてや、『サリン』の暗号として有名マンガの主人公の名前を使い、松本市内に向かう車中では主題歌を大合唱までしたという有様だ。

今に至っては考えられないような数々の馬鹿げたエピソードのもとに実行され、後の「地下鉄サリン事件」へと繋がってしまうと考えると非常に奇怪で恐ろしい。



<参照>
オウム破防法弁護団編著『オウム「破防法」事件の記録 解散請求から棄却決定まで』(社会思想社)

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