夢の話。

夢の話をする人間は信用してはいけない。
夢とは、その人だけが観た映像であり、そのオリジナリティを正確に言語化出来る人間はかなり少ない。逆を言えばそれでも尚夢の話をする人間というのは「自分の見た映像と同じ映像を他人が想像出来るに決まってる」と少なからず思っているのだ。要注意である。

さて。
夢の話をしよう。

俳優界隈には、夢の話で古くから伝わる「あるある」の1つがある。
「台詞が一文字も入っていないのに舞台に立たされる夢」だ。
当然現実ではまずあり得ない。けれど、これは夢のお話だ。理屈はさておき、次に喋るべき台詞はおろか、この物語の結末すら知らない状態で舞台上に立っている恐怖は、想像するだけで汗ばむ。

「夢は日頃思っている潜在意識の顕」などとよく言うが、だとするならばやはり「台詞を飛ばしたくない」という不安感・決意があるからこそ、この夢を生んでしまうのだろう。

では、作家がよく観る夢とは何か。

まず1つ言えるのは「〆切に追われている夢」であろう。これは脚本家に限らず、漫画家も他の仕事をしてる人でも遭遇しやすい夢だ。
ところか、不思議と僕はこの手の夢をあまり見た事が無い。それは普段から〆切をしっかりと守る、有限実行男だからでは、当然ない。
きっと心のどこかで「まぁ〆切くらいなんとか」という楽観的な自分が居るのだ。だからこそ、逆に間に合うのだ。

昨夜のことである。

夢の中の僕は、広めの会議室に居る。
四角形に囲まれた長机と椅子の数、そしてズラリと並ぶ俳優陣を観れば、経験則からそれが「本読み」という作業である事が解る。
「本読み」とは、主に舞台の現場で初めて俳優同士が顔を合わせ、声に出して共に台本を読んでみる作業の事を言う。僕は今、夢の中で、そのさなかに居る。

脚本家である僕が本読みに居る、という事はこの現場はほぼ間違いなく僕の脚本による作品だと解る。しかし1つだけ奇妙なのだ。
その本をめくり読んでみると、10年近く前に書いた稚拙な草稿なのだ。あの頃が懐かしい、などとは言ってられない。まずい。こんな昔の本、恥ずかしくて見てられない。どうしよ。皆、読まないでくれ。頼む。代わりのやつ、書くから。

当然そんな想いは届かず、本読みは進んでいく。
しまいには言葉遊びのようなボケが登場するシーンで俳優が「これ、どういう意味ですか?」と、本読みを止めてまで質問してくる始末。
まずい。俺にも分からない。
何せ10年前だ。いやむしろ、夢だ。
そんな事聞かれてもどうしようもない。

更に驚くことに、読みながらそれが「10年前の自著」とまで解ってるクセに、肝心の結末が一切思い出せないのだ。
なんだ。この後どうなるんだっけ。
どんなに道中が稚拙でも、終着駅の景色さえ絶景であれば、文字通り多少のダメ出しなど言葉を飲むはず。その一点、一発逆転に賭けたい。しかし、肝心のラストは思い出せない。いかん。どうすれば。
一体どうなってしまうのか。

ここで、目が覚めた。

少し話を戻す。俳優は、本番中の台詞忘れを恐れる為に、本番中に台詞を知らない夢を観る。
だとするならば、だ。
僕のこの夢は、僕のどんな恐怖を暗示しているのか。
本読みという現場で、しかもそれは自分の脚本で、その上でオチを知らないと言うことは現実的にあり得ない。そんな物を怯えても至極仕方がない。
一体夢は、僕に何を伝えたいのか。

朝。コーヒーを飲みながら煙草を吸い、録画の溜まったバラエティを消化する。昇りゆく煙を見てると、ふと1つの考えが浮かんだ。

もしかして僕は、10年後に今の本を読んで「稚拙だ」と思う事を恐れているのではないか。

今でこそ面白いと錯覚していても、10年後にはそれはとてもじゃないが他人に読ませられる内容ではなく、あまりのつまらなさにオチまで忘れてしまっている。そんな事を、何よりも恐れているのではないだろうか。

新しい煙草に火を点け、机に向かう。
10年後、この一行は古くなってないか。恥ずかしくないか。正直解らないが、それでも筆を走らせる。10年後の自分を、満足させる為に。

しかし、心のどこかで、10年後の自分には遥か成長していて欲しい気持ちもまた、あるのだ。

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