一人称の話。

人に誇れる程とは思わないが、それなりに読書好きである。
特に電車移動での読書は欠かせない。
お陰で何度駅を乗り過ごしたか解らない。

作家たるもの文章を読め、とは言わないが勉強は裏切らない。今まで読んだ本で無駄になった物は一冊もないと断言できる。
意外と思われるかもしれないが、小説よりもいわゆる「新書」やエッセイを読む事が圧倒的に多い。参考までに言うと、今読んでいる本は脚本家・橋本忍氏著の『複眼の映像』。盟友とも言える巨匠・黒澤明との出会いから、映画『七人の侍』の執筆など、それ自体がまるで映画のような制作秘話に溢れていて面白い。
その前に読んでいたのはシーナ・アイエンガー著『選択の科学』。
「自然に比べ環境の整っている筈の動物園で暮らす動物は、なぜ野生よりも寿命が短いのか?」という問いを元に、人生における「選択」の大事さを説く一冊だ。褒めるのも月次な位ベストセラーな本だが、これもまた実に面白かった。

脚本と同じ「物語」を読んでも当然勉強になるのだが、少なくとも僕の場合は、この様な物語になっていない「出来事」「事実」「史実」のほうが、刺激になる。逆を言えば、本棚を見られると僕の「哲学」(大袈裟だが)の所以が露呈するようで、恥ずかしい。

そんな本を読んでいてよく思う事がある。
「一人称」についての話だ。
皆さんは一人称をどう使うだろうか。
僕は、このコラムではいつも『僕』と名乗っている。
仕事場でも諸先輩を前にしていると『僕』が多い。
ただし、家族や友人の前だったり、酒の席であると『俺』である事が多い。別に気取ったりカッコつけている訳ではない。
『俺』がカッコいい時代は小学校で終わっている。
なんとなく、自然と使い分ける物ではないだろうか。

乱暴な言い方で申し訳ないが、『古い本』を読んでいると度々登場する一人称がある。それが「小生」だ。
「小生の記憶が正しければ」「小生の目にそれは焼き付いている」など。
耳を使う「聞き馴染み」は薄いが、目で見る「見る馴染み」は多い一人称だ。

漠然と憧れる。
「小生」。言ってみたい。
しかし、同時に違和感も覚える。
今の僕がいきなり「小生」と言い出したら、それは時代錯誤さもあるかもしれないが、兎にも角にもあまりに胡散臭い。自称するには何かが伴っていない気がしてならないのだ。

では、その「何か」とは何なのか。
1つ、年齢か?確かに、20代や30代の男が「小生」と言っている可笑しさが、70代、ないしは80代を超えると消えるような気もする。
それは「ワシ」にも近い感覚だ。
だが、何歳から「ワシ」を使っていいのかも、明確にラインを引くことは難しいだろう。さらに言えば「ワシ」は年齢と伴って言える気がするが、「小生」は僕が70を超えても言えるか怪しい。

1つ、風格か。確かに、昭和ながらの腹巻きをしたお爺さんが「ワシ」と言う画が浮かぶように、縁側で煙草をくゆらせながら、浴衣に身を包んだ老人がぽつりと「小生は〜」と語る画がしっくりくる。
逆を言えば、駄菓子屋の店主を営むような、いつも笑顔で子供達に囲まれている老人に「小生」は、少し似合わない気がする。

辞書によれば「小生」はへりくだった男性の一人称、とされている。
なるほど。確かに駄菓子屋店主は子供達にへりくだる事はしない。
なんとなく、つながる。

まもなく20代を終え、30歳になろうとしている。
人生で久々の「十の位が変わる年」に、すこしだけ興奮を覚えている。

この興奮がどうか、嫌な予感の類ではなく、良いワクワクでありますように。そして30にもなれば、小生と呼べる様な大人になっていますように。…いや、まだ早いか。



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