配信と生の演劇の話。

もはや珍しい言葉ですらなくなってしまった。

音楽ライブを始め、演劇やお笑い、イベントなど、ほとんどの催し物が
「配信」で行われている。
大学の授業だってリモートだと言うのだから、ある意味配信だ。
配信で顔が見えないのを良い事に、タバコをくゆらせながら授業を受けている生徒だってきっと居るだろう。なんだか、昭和に逆戻りしたみたいだ。

僕自信の生活も配信に溢れている。
打ち合わせの8割はリモート化され、自室から一歩も出ずに4,5個の打ち合わせを渡り歩く。ある意味のどこでもドア状態だ。

そこでふと疑問。
リモート会議でタバコを吸うのはアリか無しか。
そもそも、その場にいる人に対して煙が迷惑だったり、副流煙という問題があったり、或いはそもそも部屋が禁煙だったりが理由で会議中に喫煙が出来ない訳だ。全員が喫煙者の場合、喫煙可能な喫茶店での会議も珍しくない。
会議=タバコはNG、という図では無いはずだ。
その観点で言うと、ここは僕の自室な訳だし、タバコの煙はリモートを介して先方に届く訳がない。吸ってはいけない理由はどこにも無い。
けれど、どこか申し訳なさに近いものを感じて、吸うのを我慢してしまうケースが多い。嗚呼、悲しき気遣い星人。気遣い星に帰らなきゃといつも気遣っている。

そんな昨今、僕の演劇公演も初めて配信をされる事となった。
いろいろな情勢を考え、今回は『劇場での上演が終わってから期間限定で配信公演をする』というシステムにしてみた。初めての試みなので、手探りながらでもある。

文明は偉大で、やはり利便性が大きい。
遠方のお客様はもちろん、スケジュールが合わないけどどうしても観たいという方も、このシステムであればどこでも観られる。
また、小劇場人でもある僕がこんな事を言うのは本当に申し訳ないのだが、僕は閉所恐怖症だ。小劇場の座席で長時間じっとする事は、基本的には大丈夫なのだが、体調が悪かったり寝不足だったりすると地獄と化す。今スグ外の空気を吸いたい。けど、目の前では芝居が動いている。邪魔は出来ない。でも苦しい。脂汗が止まらない。俳優が「ココから今スグ逃げよう!」とセリフを発すれば、僕はいたく感情移入しその場で泣き崩れるかも知れない。そんな経験を何度かしている。

多少特殊な例だとは思うが、こういう僕の体質からは配信公演は実に有り難い。ある程度自由の効く自室で公演を観られるし、何よりスケジュールも調整出来る。

一方、制作サイドからみてもやはり利便性が大きい。
配信公演とは、言い換えれば『劇場のキャパシティを無限に出来る技』でもある。現に先日の「そこまでだ悪いやつ!」も劇場チケットは完売した。それでもより多くの人に観てもらいたいという願いが、立ち見や劇場の増設(そんな事は不可能だが)をせずとも叶えられるのは何とも素晴らしい。

しかし、これだけ利便性に溢れていると、とある疑問も浮かび上がる。

『演劇は、生であるべきなのか』

今まで当たり前だった「劇場にいって目の前で、生で観る」という観劇スタイルは、いわば「そうするしかなかった」システムでもある。
技術の発展により、それ以外の方法がとれる今、本当に劇場は足を運ぶべき場所なのだろうか?

そんな時思い出す話がある。
映画が産まれた時の話だ。

いわゆる『活動写真』的映画から更に進化し、より長く、より物語を孕んだ『映画』が誕生した頃、世界中の劇団は震えたらしい。
「誰も芝居を観に来なくなるぞ」と。

人気の俳優がどんなに元気であろうと、身体は1つしかない。
全国旅公演をした所で、北海道に居るのならば沖縄の人は観ることが出来ない。だから、旅楽一座の到着を誰しもが心待ちにしていた。逆に言うと、それを逃すと俳優の顔は中々拝めなかった。


ところが映画は、人気俳優の姿を量産化する事に成功し、北海道から沖縄まで、もっといえば同時にワシントンにだって届ける事が出来た。
となると、旅楽一座を楽しみにする必要は無い。劇場は要らない。
必要なのは映画館だけ。誰もがそんな事に恐怖したそうだ。

それでもまだ演劇には勝ち目があった。
当時の映画は「無声映画」。音声の収録は出来ず、無音の映画か、活弁士と呼ばれる人がスクリーンの横で口上を述べる形式の物であった。
つまり、俳優の声を聞くには演劇しかなかった。
まだ映画はどこか、演劇の劣化版のような形だったのだ。

しかし、1920年頃、「トーキー映画」と呼ばれるフィルムに音声を収録出来る技術が開発された。これにより、俳優の声すらも世界を飛び回る事になる。いま現代を生きる僕らがオードリー・ヘップバーンやゲイリー・クーパーの声を知っているのはこのお陰にほかならない。雨に唄えばも唄える。
これでは演劇はいよいよ終わりだ。誰もがそう思った。

それが、今から100年前の話。
100年経った今、演劇は消滅したか。
答えは、皆さんの御存知の通りだ。

つまり、配信が如何に盛んになろうとも、今後如何なる進化を遂げようとも、生の演劇が消滅する事は無いのではないかと僕は思う。
奇しくもそれを、100年という単位の歴史が証明してくれている気がするのだ。

では何故生の演劇は消滅しないのか。
長々とここで書くのも悪くないが、そんな事は野暮なので一言で済ませる。

拍手が贈れないからだ。

どんなに技術が発展して、スタンプやコメントで拍手を贈ろうが、或いは自室で自分があげた拍手の音をオンラインで返せるようになったとしても、それはやはり貴方の拍手その物では無い。

人は、人の出す音に感動する。

これは観客だけでない、拍手を受ける演者も同じなのだ。
人の人生を豊かにする物が芝居だとするならば、俳優の人生を豊かにするのが拍手だ。一方通行ではなく、相互作用。互いにプレゼントしあっているのが、生の演劇の良さなのだと思う。

さて。
次はその拍手を、誰に贈ろうか。
考えるだけでワクワクするではないか。


※ガクカワサキが脚本を担当した
舞台「そこまでだ悪いやつ!」は2021.10/31まで下記URLでオンライン視聴可能です。エッセイで僕を知ってくださった方、ぜひ作品も観てみて下さい。

https://www.confetti-web.com/detail.php?tid=63285&


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