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私と私と私
私には3つの顔がある。
・母親の私
・工務店の仕事をしている私
・おねんどアーティストの私
もしかしたらそれ以上にも色んな顔があるかもしれない。いわゆる分人主義的なあれである。
少し自分の事を回想するために
今日は『工務店の仕事をしている私』
(前編)について書こうと思う。
私の働く工務店は祖父が終戦後満州から日本へ戻ってから開業した工務店。祖父は地元で木造新築や改装工事など複数人の大工さんを抱えて営なんでいたそう。
父の代となり、現場で働く父の背中を見て私は育った。
幼少の頃の記憶では地鎮祭でお祓いをする父の姿や棟上げの時のお餅投げの時の楽しい華やかな記憶が残っている。近所に何軒も父が建てた建物がある事がとても誇らしかった。
物心ついた頃には兄達(三人兄弟)は大工さんとして働いており、必然と私も小学生の頃には大工さんになりたいと思っていた。
小学生・中学生と義務教育を終え、私が選んだ道は建築科のある工業高校だった。
入学初日、教室のドアを開けるとそこには、男子・男子・男子.........。
私は一瞬間違えたと思い、開いたドアを閉めた。
しかし間違えていなかった。
そう、建築学科には女子生徒が私1人しかいなかったのだ。
ボー然としながらも、ここから怒涛の3年間が始まるのでした。
初日のホームルームで担任はこう言ってくれた。
『見ての通り、女性が1人だ。泣かす奴がいたら承知しないぞ。そしてクラス皆で守ってやれ』と。
お陰でクラスで私を邪険にする人はおらず、隣の席の一番ヤンチャだった子が『困ったり意地悪されたら俺に言えよ』と男前な事を言ってくれたのは今でも忘れられない。
教室を一歩出ると、やれ『ブス』だの『男目当て』だの『早く辞めればいいのに』など好き勝手言われ、石をぶつけられたり、廊下で肩をぶつけられたり散々な目にもあった。
しかしめげずに通い続けることが出来たのは、大工さんになりたいという気持ちと周りにいてくれたクラスメイトや先生方がとても気にかけてくれていたからだと思う。(ありがたかった)
高校を卒業したら、大工見習いになっていずれかは父と一緒に働きたいと思っていた。
進学か就職かの岐路に立った時、私は一番に父に相談した。
父からは『将来一緒に仕事をしてくれるのならば、兄達に出来ない事をして欲しい』と言われた。
ならばと更に視野を広げようと大学へ進学するのでした。
後編へ続く
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