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ビハインドカーテン(26)

第〇章

寮の一人部屋は、意外と心地がいい。窓を開けると、新緑の匂いのする風が、部屋の中に吹き溜まり、ゆっくりと渦を作る。

ざああああ。

耳に心地いい、葉と葉が重なり擦れる音がする。俺は硬いベッドに寝転がり、そっと目を閉じた。

今年のゴールデンウィークは、九連休になるらしい。公立高校のことはわからないが、私立だからか飛び石の平日も、臨時休校となっている。だから今この寮に残る学生は、休みなどない強豪スポーツ部の奴らと、親の事情で実家に帰れない数名だ。

だから、静かだ。
すごくすごく静かだ。

俺は、ふぅと息を吐いた。お腹の上で手を組んで、少し眠れないかと試してみたが、ダメだった。脳みそが、無駄で無意味なことばかりを考え続けるのを、やめてくれない。

すごく静かなのに、俺の声だけが頭に響く。

俺は割と早くに諦めて、ベッドサイドに置いてあったメガネをかけて、立ち上がった。Tシャツに細身のスラックスを着て、俺は部屋を出て食堂へと降りていった。

お昼前の時間、食堂はガラガラだった。いくつかの天窓から落ちる太陽の中、吹き抜けの広々とした部屋に、長テーブルがいくつか並んでいるが、野球部とサッカー部が二テーブルを占領している以外は、ほとんど誰も座っていなかった。

俺は取り立てて食欲もなかったが、考えることも億劫だったので、いつも通りトレーを持って配膳スペースへ向かった。今日は配膳スタッフもいつもの半分くらい、俺の思い過ごしかもしれないが、ご飯を茶碗によそう時、俺を一瞬憐れむような表情をする。

家に帰れない、子供が一人。
同情でもされてるんだろう。

俺は騒がしい一角から遠ざかり、一人食堂の隅に座った。ただ黙々と食事をする、この時間が面倒臭い。

ゴールデンウィークだから一人きり、というわけでもなかった。俺はいつも、孤立していた。どうしてかはわからないけど、誰かといると緊張している自分を感じていたので、一人でいることは最適解のようにも思う。

ただやっぱり、ただただ、食事を口に運ぶだけというのは、面倒だった。

ふと視界の右脇に、一人の生徒がいるのに気がついた。意識を向けると、そいつは俺の一学年下のやつだとわかった。見たことがある顔で、名前は知らないけれど、目立つ存在ではあった。

あいつも一人で、飯を食ってる。
いつもは、友達に囲まれているのに。

運動部じゃないらしい。家の事情でゴールデンウィークに一人、寮に取り残されたのだ。

さっぱりとした短い髪に、華奢で小さな身体。天窓からちょうど光が降り注ぐ、その場所に座り、黒髪をキラキラとさせながら、飯を食っている。

そいつは身体に似合わず、あっという間に食べ終わると、丁寧に箸を置き、目の前には誰もいないのに「ごちそうさま」と両手を合わせ、首を垂れた。

そいつが顔をあげた瞬間、俺と目があった。

しまった。
そう思った。

俺は誰かと喋るつもりは、全くなかったから。

そいつは嬉しそうにニコッと笑うと、トレーを持ってこちらへと向かってきた。俺の目の前に立つと、臆することなく「こんにちわ」と声をかけてきた。

俺は返事をする代わりに、「ああ」と無愛想に頷いた。こんな奴に関わる予定もないし、もし関わってもいいことなんか何もないに決まってる。生きてる場所が違う。

「先輩、ですよね」
こいつは俺のそんな気持ちを汲み取らず、遠慮なく声をかけてくる。

「まあ」
俺はしぶしぶ返事をした。

「ああよかった、同士がいた」
そいつは屈託のない顔で笑う。そいつはよれたブルーのスウェットを着ていたが、自分の身なりを特に気にしている様子もなかった。

「意外とみんな、家に帰っちゃうんですね」
「まあ」
「うちは、母親が夜勤とかあるから、寮にいた方がいいって言われて。まあ、家にいても、何するってわけじゃないから、学校の方が楽しいかもですけど」
「学校も、特に、なんもないだろ?」
俺は初めてちゃんとした返事をしてしまった。こんなに喋りかけられてしまうと、返事をしないことが憚られてしまう。

「まあ、ないっちゃ、ないですね」
あはは、とそいつは笑う。

「俺、二年の夏目恵です。よろしくお願いします」
「……堀江、三年」
俺はしぶしぶ名前を名乗った。どうやってこの夏目恵を振り切ろうかとうだうだと考えているうちに、恵は「いいこと思いついたんですけど」と言い出した。

「何?」
「今、娯楽室、使いたい放題じゃないですか?」

確かに、と思った。娯楽室はいつも特定のやつらで埋まってしまう。そこにはテレビもゲームも漫画もあるのだ。

「野球とサッカーは、これから練習ですよ。娯楽室使うなら、今のうちです。行きません?」
恵は、なんの躊躇もなく俺を誘ってきた。

部屋に戻りたい気持ちが、お腹の奥底にあるし、この軽い緊張状態が続くのはしんどかったが、『誰もいない娯楽室』にも、少し興味があった。

スポーツ部の奴らが、ガチャガチャとトレーを持って立ち上がる音がする。

「行く」
俺がそう答えると、明らかに顔を輝かせて恵が笑う。

「やった」
軽くガッツポーズをすると、「じゃあ、娯楽室前で待ち合わせしましょう。十五分後」と言った。

俺は小さく頷いた。長いゴールデンウィークの、たった一日。この陽気な下級生と過ごしてもいいだろうと、そんな気持ちになっていた。

部屋に戻ると、勢いでベッドに寝っ転がりそうになったが、それをぐっと押し留めて部屋に立ち尽くした。机の上の時計を見ながら、一分一分をじっと見送る。そして十五分後に自分の部屋を出て、娯楽室へと着いた。

いつもの娯楽室なら、廊下からでも部屋がざわついているのがわかるが、今日はしんと静かだった。壁に背をもたれかけぼんやりとしていた恵が俺をみると、パッ笑顔になって手を振る。

「入りましょ、やっぱ、誰もいない」
娯楽室は建物の二階突き当たり、右手のドア向こうには洗濯室が並んでいる。手前に三人がけのソファと、奥に畳スペースと漫画が置いてあった。最近、一台だけパソコンが使えるようになったけれど、なぜかここでのゲームは禁止だった。

大きな窓が開け放たれ、新緑の季節特有の匂いが、部屋に充満していた。

「ゲームやりましょか? スマブラがある」
恵はテレビの下にしまわれていたゲーム機を出して、すっかり対戦状態になった。俺は正直、テレビゲームはあまりしたことがなかった。家になかったし、友達のうちに集まってやるというような、そんな遊びに誘われたこともなかった。

それに対し、恵はすごくうまかった。こういう対戦ゲームをする機会が、これまで死ぬほどあったのだろう。

「やっぱ、家に帰らなくて正解でした。家にはゲームないし」
コントローラを器用に操りながら、頬を紅潮させて恵が言う。俺は特に返事をしなかった。

小一時間ほど遊んだあと、恵はパソコンに目をやる。
「パソコンでもゲームができるって聞いたんですけど、わかりますか?」

恵は好奇心の塊だった。すぐにパソコンの電源を入れる。
「動画も見られるって」

でも恵の意に反して、動画サイトにはアクセスできても、再生までには行かない。
「えー、なんでだよお」
恵はパソコンの置いてある窓際の机に頬をつきながら、不貞腐れた声を出した。

俺は思わず手を出した。
「プラグイン入れて、ポート開けると見られると思う」
「え? どういうことですか?」
恵は未知の言葉を聞いたようで、ぽかんとした顔をしている。俺は足りない部分を再設定してから、ページをリロードして見せる。

「わ、すご。見れた」
恵が心底感嘆して声を上げた。

俺にとって、家のパソコンだけが話し相手だったから、ネットワークの設定やプログラミングは趣味の範囲内だった。

窓の外から緩やかな風が吹き、俺たちの黒髪を柔らかに撫でる。なぜか建物の後ろ側は、木々がないぽっかりとした空き地になっているから、娯楽室にはたくさんの太陽が入り、思いのほか俺にとって心地の良い時間が流れた。

結局それから、俺たちは一緒にいる時間が増えた。

二、三日すると娯楽室も飽き始め、嫌がる俺を引っ張るように恵が体育館へと連れ出した。

恵はバスケ部に所属していたが、バスケ部は弱小だった。
「女バスはつえーんだけど」

その頃にはすでに、恵から俺への敬語は消えていたが、俺はそれを不快には思ってはいなかったし、俺もいつのまにか「恵」と呼んでいた。

誰かとこんなに気兼ねなく話すことができるなんて、俺は少しびっくりしていた。それは恵の人懐っこい感じがそうさせるのか。とにかく、俺が何を言っても言わなくっても、恵との会話が途切れることがなかったのだ。

体育館のツヤツヤの床に、赤茶色のボールを規則正しく当てながら、恵は俺が不器用に走るのを笑いながら見ている。

「理玖は頭はいいのに、スポーツは全くだなあ」
恵が何の気無しに放り投げるボールが、紐を揺らす微かな音を立てながらバスケットゴールへと吸い込まれていく。

午後のぬるく湿気た空気を吸いながら、俺は「疲れた」と言って体育館を見渡せる舞台の上に上がって、座りこんだ。

体育館は、二人でいると広い。陽がガラス窓から入り、埃が舞う。ゴールポストから落ちたボールを拾って、恵も俺の隣に座った。二人で足をぶらぶらさせながら、木々が軽やかにざわめく音を聴く。

「それ、何年もの?」
恵のヨレヨレのスウェットを指さして、俺は笑いながら尋ねた。この連休中、恵はこれしか着てない。

「えー? 中一んときくらいからかな?」
「マジ? 身長伸びてないの?」
「伸びてなーい。うるせ」
恵が笑った。

恵は百六十ちょっとぐらいしか身長がなかったが、バスケ部のエースらしかった。確かにジャンプすると空中でちょっと止まって見えるぐらい、高く高く飛ぶ。

「そろそろ買ってもらったら?」
「いやー、ちょい、無理かも」
底抜けに明るく恵が言う。だから俺もなんの遠慮もなく「え? なんで?」と聞いてしまった。

「俺んち母子家庭だから、金ねーんだ」

俺に不安がブワッと瞬間的に立ち込め、久しぶりに緊張が走った。

デリカシーなく聞いて、嫌われたかもしれない。

「父親、俺が小学生の時に死んでるんだ。でも母親は看護師で、片親の割りに結構稼ぐらしい」
屈託のない笑顔で恵が言うので、ほんの少しだけ俺の緊張が解ける。そしてつい、「俺も」と言ってしまった。

「え? 母親しかいないの?」
恵が嬉しそうな顔をするので、俺はぐっと言葉に詰まった。どこまで本当のことを話すか逡巡したけれど、すぐにうわっと心のうちが溢れてきた。

今まで、誰にも喋ってないけど、話したかったのかもしれない。

「母親だけっていうか、父親はいるけど俺とは血が繋がってない。母親の連れ子なんだ」
「……そっか」
恵が言った。

同情とかはない。ただ淡々と、俺の話を聞く準備をしたという相槌だった。

「妹が一人いるけど、俺とは腹違い。このゴールデンウィーク、みんなで旅行に行ってんだ」
「え? 理玖は?」
「行かないよ、行くかどうかも聞かれてないし」
「そっか」
今度の相槌には、同情が入っていただろうか。わからない、でも俺が思いのほか動揺していた。

家族の中で感じる俺の疎外感は、きっと誰にも理解してもらえない。取り立てて父親から嫌がらせを受けた記憶もないけれど、あのよそよそしさは初めて会った時から変わらない。

お前は俺の息子じゃない。

ずっと、そう言い続けられている。

「じゃあ俺たち二人とも、親父がいないんだね」
恵が俺の顔を覗き込みながら、安心させるような笑顔を見せる。

「まあ、そうかもな」
俺はホッとして言った。

「別にいなくたって、何の問題もなし」
「そうとも言う」
俺が頷くと、恵はお腹に抱えていたボールを、突然ぽんと放り投げた。

「よっしゃ、1on1、やろ」
舞台から恵が飛び降りる。

「えっ、俺不利じゃん」
「大丈夫、俺は左手しか使わないし」
「それはそれでバカにしすぎ」
俺も舞台から飛び降りて、ボールを全力で追いかけた。この学校に入って、いや、生まれてこの方、初めて全力で走ったかもしれない、というぐらい俺は走った。

連休中、他にも寮に留まるやつはいたけれど、俺たちはずっと二人でつるんで過ごした。スポーツをするときにスラックスはまずいとわかったし、学校の外にはコンビニ以外行くところがないということもわかった。学校は狭かったが、俺の世界は広がったような気がしていた。

俺の部屋で勉強をするときに、恵がひとつ年下だったと思い出す。学校が始まれば、学年もクラスも別々、こんなにも一緒に過ごす時間はなくなる。

当然のことだし、別に大したことじゃないんだから、大袈裟に考えるな。
俺は夜ベッドに転がりながら、そう考える。

夜は今までだって静かだったけれど、こんなに孤独であることを噛み締めたことはなかった。無駄で無意味な言葉を、脳が延々と喋り続ける夜。ゴールデンウィークも終盤には、一日が終わってしまうことが怖いと感じるようになっていた。

ゴールデンウィーク最終日。夕方ぐらいから、寮の生徒たちが帰ってくるのだろう。食堂に人はまばらだったけれど、どことなくこれまでとは違うざわめきがあるような気がした。

「おはよ」
恵が当然のことのように、トレイを持って俺の前に座る。

「ゴールデンウィーク、終わるなあ」
「……」
「友達が戻って来んのは純粋に嬉しいけど、休みが終わるのは嫌かも」
「……そう?」
俺がぽつりとそう尋ねると、恵は「嫌じゃないの?」と、屈託なく笑うので、俺はまた黙った。

「すぐ中間だし、地獄だよ」
何も言わない俺を見ながら、恵は綺麗な所作で茶碗を持つ。

「でも、理玖が教えてくれたから、成績上がるかも」
「それはよかったな」

俺はいつも通りの調子で、なんとか返事をした。

「今日は、娯楽室の最終日じゃないか?」
俺が気分を上げるつもりでそう言うと、恵は「それもいいけど」と、いいながら味噌汁を一口飲む。

「あっち側の空き地、行ってみない?」
「山側の?」
「そう。そういえば行ったことがないなって思って」
「なんかあんの?」
「さあ? それを見に行くんじゃん」
恵は、大したことないものに、意味を持たせてしまう。あそこが何か特別な場所であるかのような気になってくるから不思議だ。

「いいよ、行こう。天気いいし」
「きまり」
恵はにこりと笑った。

食事の後、二人並んで寮の壁際を歩き、食堂の裏口前を通って、一部に蔦類がへばりついているのを見ながら、これを放っておくとすぐに緑に包まれるんじゃないだろうか、と考えた。

木々が鳴ってる。
いつもは心地いいこの葉音が、今日はなぜか不安を煽っていた。

長期の休みが終わる。
元の生活に戻る。

「うわ、なんでここだけ土が剥き出しなんだろ?」
恵が無邪気に足で地面を踏みつける。

「あそこに、変な祠みたいなのもあるし。何ここ? あの管理室のおじさんが、ここだけ重点的に草をむしってんのかな?」
恵がそう言うので、
「そんなバカな」
と、俺は冷たく返した。

しゃがんで土を触っていた恵が、座ったまま俺を見上げる。ツヤのある髪に日差しがキラキラと輝いていたが、その目は探るように俺を見ていた。

「どうしたんだよ」
恵が言った。
「なんか、変」

「別に」
俺は目を逸らした。そしてよせばいいのに、余計なことを言ってしまう。

「お前は嬉しいだろ、学校始まるから」
「え? 勉強は嫌だって」
「友達に会えるじゃん」
「確かに、それは嬉しいけどさ」
恵はそう返事してから、再び俺の視線を拾って目をそらさず見てくる。

「言いたいことがあるなら、口に出して言ってくれなくちゃ、わかんないよ」
恵が言った。

「学校が始まったら、きっと俺たちは口もきかない」
「……なんでだよ」
恵が俺の言葉に驚いている。

そうだよな、わかんないよな。
恵みたいに誰とでも仲良くなれるやつには、きっとわかんない。

「別に普通に話そうよ。訳がわかんない」
「お前は、いつもの奴らの中に戻っていくからさ。大体、俺とお前じゃ、全然違うから」
「……何言ってんの? 違うって、どこが」
「全部違うよ。仕方ないと思うけど」
「はあ?」
恵が怒ったのがわかったが、俺はもう止められなかった。

「なんで俺に声なんかかけた? どうせ、連休中に時間を潰せるやつが必要だっただけだ」
最後は喉がいがらんで、声が掠れた。

恵は立ち上がって、強く俺を睨みつける。
「何それ、声かけたのが迷惑だったってこと?」
「どうせ、俺は一時的な友人もどきだろ? ってこと」
「なんだよ、もどきって。友達になったつもりだったけど?」
「それ、マジで言ってる?」

俺は吐き捨てると、くるりと恵に背を向けた。心臓はバクバクと動くくせに、手足が冷えてくる。早足で来た道を戻り始めた。

背中で恵の苛立ちを感じ、それでも後ろから俺についてくるのに、少し安堵している自分に嫌気が刺した。

「……あのさあ」
後ろから恵の声がした。

「俺たち、友達だよ」
そう言った。

俺の足が止まる。依然として心臓は激しく動いてはいたけれど、手足に血液がめぐるのを感じた。

俺が振り向くと、まだ恵は怒った顔をしていたが、声が悲しげだった。
「理玖とすごく気が合う、多分これから一生付き合う友達だって感じてたんだけど、それって俺だけだった?」

何と言ったらいいかわからない。喜びというシンプルな表現では物足りない、期待を伴う、それでいて静かな安堵か。

「……なんか言えよ」
「恥ずい、そんなこと言って」
俺はそう言ったが、自然と笑ってた。落ち込んでいた恵の気持ちが、ゆっくりと上昇してくるのが、見ていてわかる。

恵が俺の隣に並び、俺たちは再び歩き出した。大きな風の塊が、着古した恵のスウェットと、俺のシャツを膨らませる。

「理玖はさ」
歩きながら恵が言う。

「もっと素直になったらいいよ。自分の感情を正直にさ」
「……そんなこと、誰もしてないじゃん」
「俺はしてるけど」
「恵は変なやつだし」
俺がそう言うと、恵は笑う。

「寂しいなら寂しいって、言えばいい。そうしたらみんな受け止めてくれる」
「……んな、バカな」
「親にも言ってみろよ、寂しいって」
そう言われて、俺の胸が少しつかえる。

「別に、それは……」
そう言いかけた恵は、俺の様子に気がつかず言葉を続ける。

「そしたら、学校始まったらさ、俺の友達と一緒に遊びに行こうよ。いいやつばっかりで、楽しいと思うんだ」
恵は期待に胸を膨らませるようにそう言った。

何の悪心もない。
純粋な善意。

気がついた時には、恵を強く突き飛ばしていた。

ざああああ。
木々が唸る。騒いでいる。喜んでいる。

恵は、地下の貯水槽へと続く階段に、頭から落ちていた。上から眺めるその姿は、まるで壊れた人形のようだ。

ざああああ。

風に巻かれながら、俺はゆっくりと階段を降りていき、恵のそばに立った。

恵の瞳はすでに、俺を見ていなかった。首が変な方向に曲がっていて、この身体がもう空っぽだということは、一目瞭然だった。

しゃがんで、恵の髪を指で撫でる。さっきまで風になびいていた黒髪は、力なく額にへばりついている。

「死んだ」
俺は口に出して言ってみた。なんだか実感が湧かない。

だってついさっきまで。
俺が突き飛ばすまで。

「……どうした?」
突然頭上から声がかかり、俺ははっとして上を向いた。

階段の上から、寮の用務員がこちらを見ていた。影に隠れていても、ただならぬ気配に恐れをなしているような、そんな顔をしている。

「階段から落ちちゃって」
俺の口が、平然とした声を出したことに、俺自身が驚いている。

落ちたんじゃない、俺が突き飛ばした。

「救急車…救急車、呼ばなきゃ」
用務員が慌てたようにその場を離れようとしたので、俺は全力で階段を駆け上がって、動揺している用務員の腕を力任せに掴んだ。

その男が怯む。

「もう死んでる」
俺は言った。

「えっ」
男が恐怖にまみれた声を出した瞬間、俺はこの男の目を見て言った。

どことなく俺と似ているその目。
見覚えのあるその目に。

「助けてくれ、父さん」

父親が目を見開き、俺を凝視する。

「気づいてないと思ったの? 父さんが出ていったのは、俺が小学三年生の時だ。顔を覚えているに決まってる」

父親が何を思ったか、感極まるように唇をぎゅっと閉めた。

「見てたんだろ? 俺が突き飛ばしたところ」
俺は段々と早口になっていた。

父親はずっと俺を見ていた。自分勝手に俺を捨てたくせに、独りよがりの感傷でまた俺に近づいてきた。ずっとこっちを伺うように見ていたことに気づいていたけど、到底感動できる再会ではなかった。

ただただ、胸糞が悪いだけ。

「俺が殺したことがわかったら、人生はめちゃくちゃだ。わかるよね? もうすでにひどい人生なんだ。ずっとずっと、あの家で一人きりなんだよ。これ以上一人にはなりたくないんだ、父さんっ」

用務員の目の中に、何かが動いた。

「……わかった、もう一人にはしない。俺が助けてやるから」
用務員はそう言って、安心させるように俺の肩をポンと叩くと、階段を降りていく。

ざああああ。
風が強い。どんどん強くなる。

吹き溜まりのような場所で、恵の身体はグニャリと折れ曲がっている。用務員はポケットから鍵を出すと、地下室の重い扉を開いた。

湿気たコンクリートの匂いが、むわっと広がる。俺は用務員と一緒に、低い唸り声をあげ続ける貯水槽と壁の間に、恵を押し込んだ。

「大丈夫だ、なんとかなるから」
大汗をかいて、真っ白な顔の用務員が言う。

「理玖は自分の部屋に戻れ。俺がなんとかするから」
用務員のその言葉に、俺は礼も言わずに背を向け、階段を駆け上った。

さっきまで吸っていた空気と、今吐き出すこの息は、まったく別のものだ。平静を装って自分の部屋に戻ると、俺はベッドに腰掛けた。

俺は失ったのか、それとも得たのか。
妙に高揚している自分がいた。

――-

恵がいないことが騒ぎになる頃、俺は自分のしでかしたことの重大さに、やっと実感が湧いてきた。寮に戻ってきた生徒たちが、夕方の食堂でざわざわと噂しているのを横目に、俺は黙々と面倒な食事をこなす。

内心、生きた心地がしなかった。用務員はあの地下室にずっと恵を隠し続けるのだろうか? そんなこと可能なんだろうか? 連休中、俺が恵と一緒にいたことは、寮に残っていた生徒たちは気づいている。疑いをかけられないか、警察に聞かれないか。

でもそんな不安を抱えつつも、俺は恵といつも一緒にいた友達の一団が、浮かない顔で話し込んでいるのを見ながら、不思議なことにうっすらと喜びを感じていた。しばらくこの喜びの出どころを考えてみても、よくわからなかったけれど。

結局、用務員の言う通り、俺はなんとかなった。先生にも、警察にも、特別に事情を聞かれなかったのは、どうしてだろう。

所詮、俺が誰と一緒にいるのかとか、他人にはまったく興味のないことなんだろう。

しばらくして、寮は閉鎖にになった。遠方から来ていた生徒は、これを機に転校を余儀なくされたが、俺の実家は電車で一時間程度だったこともあり、転校せずにすんだ。

恵の母親の強い希望で、寮はそのまま残されることになったと聞いた。警察は家出の可能性を考えていたようだが、母親にはわかっていたのだろう、突然何も言わず出ていくような子供ではないことを。我が子の失踪を調べるために、執拗に何度も学校に来ていたらしい。もちろん警察にも。

あれから用務員とは一度も話していない。目が合っても、知らぬふりをしていた。その都度、何か言いたそうな顔をしていたが、そんなこと俺の知ったことではない。

一ヶ月後には、生徒が侵入しないよう、寮はフェンスで囲われ、近づけぬようになっていた。

でも俺は教室の窓から、木々の向こうに見える寮を眺め続ける。あそこに恵の身体があることを知っているのは、俺とあの用務員だけ。

それは、スリルを伴う、密かな喜びになっていた。

俺はきっと、おかしいんだろう。恵を失ったのに、恵を独占したような気持ちにもなってる。罪悪感はもちろんあるけれど、そんなものが霞むくらいの、喜び。

ああでも、恵ともう一度話せたら。
恵と一緒に、あの連休を過ごせたら。

季節が移り木々が枯れ、皆、夏目恵を忘れてはいないが、日常に埋没し始めた頃、俺は眺めるだけでは足らなくなっていた。

カサカサと乾いた音が、靴底から響いている。風の音は相変わらず耳の奥に響き、俺はこの孤独に疲れていた。

『寂しいなら寂しいって、言えばいい。そうしたらみんな受け止めてくれる』
でも俺の周りには、やはり誰もいない。

閉門がそろそろという時間、俺はフェンスの近くに寄って、そっと触れてみた。ひやっとした感触が、冬がすぐそこまで来ていることを教えてくれる。受験はもうすぐそこだし、卒業も間近。俺はもうここにくることがなくなるだろう。

部室棟の裏から、フェンスをよじ登って、寮の敷地に飛び降りた。ゆっくりと木々を抜けて、大きな建物へと向かう。見上げる寮に電気はなく、すっかりと活気を失っていた。場所というものは、人がいなくなると、命を失うように枯れていく。

すっかりと陽は翳り薄暗い中、慎重に地下室への階段まで歩いた。枯葉が階段の下に溜まっていて、長らくこの扉が開いていないことを知った。

まだ、この中にいるだろうか。

俺は階段を下り、足先を枯葉に埋めながら、扉のノブを回してみたが、鍵がかかってた。

俺は再び階段を登り、今度はエントランスの方へと向かった。いつもついていたエントランスの常夜灯は消え、黒で塗りつぶしたような洞窟の入り口に見える。

俺がガラス扉を押してみると、意外なことに鍵がしまっていなかった。キィと蝶番の小さな音が聞こえ、俺は久方ぶりに寮の中へと入ることができた。

あんなに鬱陶しかった、生徒たちのざわめきがない。家具は全て残って以前と変わらない景色のはずなのに、うっすらとカビの匂いがして、管理の行き届かない建物が朽ちる速さを思った。

ここで恵と過ごした。
恵は俺を「友達」だと言った。

エントランスホールも、食堂も、娯楽室も、どこもかしこも、恵がいるような気がした。笑い声が、俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。

俺は一階にある、恵の部屋へと向かった。恵は二年生で二人部屋、同室の奴とも仲よくしていたが、連休中にそいつは恵を置いて、実家へ帰っていた。

漆黒とも言える闇の中、俺はゆっくりと歩いて、扉の前に立つ。あまりここには思い入れがない。恵はよく、広い一人部屋である俺の部屋に来ていたから。

そっと扉を押しあけると、恐れていた通り、そこはもぬけの空だった。剥き出しのマットレスがある二段ベッドに、空っぽの机が二連。窓から見える景色は、鬱蒼とした木々の刺々しい幹ばかりだ。

俺は落胆を隠せずに、小さくため息をついた。いないことはわかってはいたけれど、喪失感が増していく。

俺は突き当たりの階段を登り、娯楽室の前へと出る。娯楽室も静かなものだった。ゲーム機器やパソコンは流石に撤去されていたが、そのほかは残されている。薄汚れたグリーンのソファも、誰かが投げたクッションも、そのままに。

恵はいない。
俺が殺したんだ。
殺したら、会えなくなるのは、わかっていただろうに。
俺はなんて愚かで、浅はかなんだ。

二階の長い廊下を歩きながら、恵のことを考え続けた。食堂の天窓から降る月明かりが、薄い紺色の光を廊下に落とす。

突き落とされた瞬間、少し驚いたような顔をして、でも少し笑顔であった気もする。俺の見間違いかもしれないけれど。

俺の部屋の前で、ぴたりと止まった。俺はそっとノブに手を置いて、ゆっくりと回した。寮を退去するとき掃除をしたから、俺のものは何も残っていない。残っているのは思い出だけ。

扉を開けると、そこに恵がいた。

椅子に腰掛け、ぼんやりと外を見ていたが、気配に気づいて振り返った。

「理玖」
恵の瞳が大きく見開き、それからポロポロと涙が溢れ出した。あの日と同じ、中学から来ているスウェットを着て、確かにそこに座っていた。

「恵」
俺はでも、これが当然のことのように思えた。だって、おかしい。恵が俺を置いていくなんて、そんなことありえない。

恵は俺のそばにきて、そっと腕に触った。

「うわ、本物だ」
そう言って笑う。

「よかった、理玖がきてくれて」
恵はそう言いながら、不安そうに中を見回す。

「気づいたら、誰もいないんだ。外に出ようと思ったんだけど」
そう言って、窓へちかづく。

「ほら、見て。腕を外に出すと、見えなくなっちゃうんだよ」
恵が窓の外に出した腕は、月明かりに溶けてしまっていた。

「ここを出ると俺が消えるんだって気づいてから、途方にくれてたんだ。でも信じて待ってたよ、理玖なら絶対ここに来て、俺を助けてくれるって」

「恵、俺……」
込み上げるものがある。俺は恵を失ったわけではなかったんだ。ずっと待っててくれた。

恵の顔が、涙を堪えるように歪む。
「俺さ、ほんとさ」
恵の声が震えている。

「理玖、寂しかったよ。すごくすごく、寂しかったんだ」

俺は恵を抱きしめた。そこには体温があり、香りがあり、呼吸があった。俺だけの特別な恵だ。

「俺も、寂しかった」
腕に力を込めると、恵も同じぐらいぎゅっと強く俺を抱きしめた。

「俺が助けるよ、恵がここから出られるようにするから」
「うん、うん」
恵の涙声が、肩のあたりから聞こえる。

しとん。
しとん。
しとん。

恵の涙の向こう側に、水が垂れる音が聞こえた。
ああそうか、恵の身体はやっぱり、あそこにあるんだ。
俺が恵のために、身体を用意してやらなくちゃ。

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