ビハインドカーテン(23)
第三章(0)
気が重くないと言ったら、嘘になる。
恵が母親と会いたがっているのは、当然だと思った。あんな場所に一人きりずっと出られないでいて、母親はその安否も分からないなんて、地獄以外の何者でもないのだから。
俺が今からすることは、恵のためになるのに。
ざわざわと木々が揺れ、葉が放出する細かい水分が、身体の奥に居心地の悪さを起こさせる。虫がなく木々の間を抜け、ゆるい坂を登り、とっくに落ちた陽の名残を足の裏に感じながら、俺は毎年と同じようにあの家に向かっていた。
誰にも会わない。
こんな田舎の夜なんだから。
ぽつんぽつんと街灯をたどりながら、恵の家に到着した。雑草が抜かれた庭に敷かれる石畳をたどって、旧式なベルを鳴らす。
からからっと軽い音がして、恵の母親が顔を見せた。似てる。とても人好きのする、優しい人だ。
「こんばんわ。すみません、こんな時間に」
「こちらこそ、毎年ありがとうね」
柔らかな髪に白髪が混じる。最初にこの家を訪ねてきた時よりも、身長が縮んだように見えるのは、俺の背が大きくなったからだろうか。
部屋の中は、暖かな空気が循環していた。玄関のペンダントライトが、オレンジの光を廊下の奥の方までを照らしている。まるで恵のようだ。暗闇を照らす光。
左手のガラス戸を引き、畳敷の居間へ通された。立派な一枚板の座卓の前に、清潔な座布団が一枚おかれ、「どうぞ」と促される。俺は言われた通りそこへあぐらをかいた。
目の前に座る母親が、一昔前の魔法瓶から、急須に湯を注ぐ。独特の空気が漏れるような音が、湯気とともに天井に上がった。
「お疲れ様。先生はこんなお時間までお仕事されるのね」
「でも忙しさの波はありますし、そこまで苦ではないですよ」
「そう、やりがいを感じているのね」
母親は白い歯を見せて、まるで俺を誇らしく思ってるような笑顔になった。それからふと影が落ちる。
恵を想ってるんだ。
そして諦めたような顔をしてから、「湿っぽくなって、ごめんなさいね」と笑う。そして今度は自分のために、急須に湯を注ぐ。
「いつまであの建物を保存してくれるかしら」
湯気の立つ湯飲みを両手で支えて、母親は少し首をかしげる。暖かい電球の光が頭頂に見える白髪に反射していて、それがキラキラと場違いの輝きを生んでいた。
「保存するように、俺からも働きかけているんですが」
そう言って、俺は口を閉じた。
実際は学校も、そろそろあの敷地を持て余している。できれば売るか、違う施設に建て替えしたいという話しか聞いていない。一教師の意見などは、正直あまり意味を成していなかった。
でもあそこが更地にされるのは困る。
「そう」
母親は深く息を吐き、肩を落として、背を丸くする。
「いいのかもね、そろそろ」
母親は小さな声で言った。
「あの子が消えたときは、意地になってあの建物を壊すなって主張したけど、結局あの場所があっても、あの子は帰ってこないんじゃないかな、って」
「そんな」
俺の息がぐっと詰まる。あの場所を壊してしまうと、恵はじゃあどこに行くんだろうか。
「大丈夫です。必ず帰ってきますから」
俺は机に拳を置いて、力を込めて言った。
ああでも、そうだ。俺は今日、この優しい人を恵の元に連れて行くんだった。
恵は喜ぶだろうな。すごく、母親に会いたがってた。この親だって息子に会いたい。俺のやることは二人を幸せにするんだ、でも。
この胸のモヤつきはなんだろう。
「恵は本当に幸せな子ね。こうやって毎年気にかけて訪ねてきてくれる親友がいるんだもの」
そう母親は言いながら、でもなにかをふと思い出したような顔をする。
「……ねえ」
母親のかさついた右手が、机の上で所在なげに動いた。後ろめたいことがあるかのように、母親の視線が俺から背けられる。
「この間あの子の写真を眺めていたら……どこにも写ってなかったのよね……あなた」
母親が視線をあげた。
ゆっくりと目が合う。
「恵とは、仲良くしてたのよね?」
細い針で心臓に小さな穴を開けられたかのように、突然正常に動かなくなった。視界がカッと赤くなり、気づいたら俺は机を乗り越えて、母親を押さえつけていた。
小さい。
すごく弱い女だ。
恵によく似た瞳が、理解が追いつかないと言うように、微動だにしていない。それから掠れたような声が、乾いた唇から漏れた。
俺はポケットからビニールテープを取り出し、まだ動けないでいる母親の首にひっかけて、思い切り引き締めた。
心拍数が急激に上がり、アドレナリンが放出される。身体の奥底から、熱いエネルギーが沸き起こっていた。
「かぁ、ああ、」
声にならない声が、女の口らしき部分から発せられる。締め上げる俺の両手を必死に掴むが、ただその短い爪でひっかくにすぎない。
俺は輪っかになった部分を絞り上げたまま、素早く鴨居に通して、力一杯引き上げる。
この方が力がいった。女は、畳に戻ろうと手を伸ばし、足をバタつかせ、釣り上げられるのを全力で抵抗している。
汗が滝のように流れ、ビニール紐が手のひらのなかで擦れる。ロープを必死に手に巻いて、体重をかけて引っ張り上げた。畳が擦れて、井草の匂いが立つ。
もっと、もっと、もっと。
目一杯、引き上げろ。
この女は、許せない。
やがて、空気の波がやんだ。はっはっはっと短く息をしながら目を挙げると、母親がぶら下がっていた。手をだらりと下げ、足先が畳のへりをかすかに擦る。
ダムから放出されていたアドレナリンが、急激に止められてだんだんと視界が開けてきた。横を見ると、盛大に床の間のガラスケースにぶち当たっている。
ぎいっぎいっ。
音がする。
木をビニール紐が削る音。
手のひらにまで感じていた血流が穏やかになると、俺は慎重に鴨居にビニール紐を幾度かぎゅうぎゅうと巻いた。座卓の上にこぼれたお茶を拭き取り、座卓にのれば首を括るのにはちょうどいいという場所にまで、移動させた。床の間を見ると、意外にガラスケースのヒビが気になって、前後反対に置き直した。
なぜだか胸の奥に違和感が残った。当初の計画通りに物事を進めたのだから、何も恐ることはないのだけれど。
しとん。
ああでも、恵は居る。
大丈夫だ、何も間違っていない。
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