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ビハインドカーテン(25)

第三章(2)

気が急く。
何度も何度も、目の前から圭人が消えたあの瞬間を思い出した。

今ならまだ、敬人は寮の中で生きている。あかねがしきりに主張していた『寮の中は異世界』説は、頭の中で『ない』寄りの保留になっている。明希が出してくる人間の痕跡の方が、信憑性を帯びていた。

ってことは、人間から敬人を守ればいいということ。夏目の呪いから解放するなんてことより、ずっと明確にやることがわかっていて安心する。

木々の間に、どんどんと日が落ちていく。葉と葉の間に潜んでいた影が、染み出して流れ出して、俺たちの足元に溜まっていく。

心臓がバクバクしていた。

ざざざざざ。
木々が意思を持ってざわめく。

寮のエントランスへ走ろうとした俺を、明希が「まだ」と引き留めた。

「え、何が?」
俺はよくわからず、ぽかんとして明希を見た。

「今から立花が運ばれてくるから、それを確認する」
「えっ」
俺は思わず大きな声を出してしまったが、すぐに明希に鋭く睨み返されて、口を閉じた。

「どういうこと?」
あかねが明希に訝しげに尋ねる。すると明希は馬鹿にしたように唇に笑みを浮かべて、「頭使えよ」と言った。

「はあ?」
カチンと来たあかねが喧嘩を吹っかけそうになっていたが、俺は慌ててあかねを引き留めた。
「まず、話を聞こう」

「人間が突然消えるなんてこと、この現実世界ではありえないんだよ。異世界へのトンネルなんて、漫画だけの話だ。立花は廊下に出た直後に攫われた、ということはあの時点ではまだ近くにいたってことだろ?」

「確かに」

そうだ、犯人が人間なら、敬人をここまで運んでこなくちゃならない。俺はまだやっぱり、現実的じゃない何かの視点で、これを見てる。かなり間抜けだ。

「じゃあ、どこに? 廊下には誰もいなかったし、隠し場所なんて」
「あったよ。本当に見たいものしか見てないんだな、人間って」
明希は変に達観したように喋る。

「完全下校目標が六時半、閉門が七時。薄暗くなってきてからの方が、人を運ぶには都合がいい」
「でも、生徒を担いでたら気付くでしょ、明らかにさ」
あかねが異議を唱えたが、俺は明希の言う通りのような気がした。

明希はスマホの時間を確認して、「あと三十分ぐらいで来るはず」と言った。三人でエントランスが見える建物の角にしゃがみ込み、息を潜める。

「でもこの敷地が別次元に繋がってるなら、弟を見つけられない可能性もあるけど」
あかねはぶつぶつと自分の主張を続けたが、俺たちは無視した。

暗闇がいよいよ人と景色の境をぼかし始めた頃、「キイ」という金網の扉が開く音が微かに聞こえた。俺はごくんと唾を飲み込み、早くなる心臓の動きを必死に抑えようとした。

ついに、犯人がわかる。
冷静にいくんだ。

鬱蒼とした木々の間を、黒い人影がこちらへ向かってくる。ゴミカートを運ぶための荷台を押しているように見える。

「あっ」
あかねが小さく声をあげた。

それは用務員だった。この場所には近づくなと圭人に警告していた、あの用務員だ。猫の死体を祠に供えてたときから、あいつは何か隠してると思ってた。

カタカタと小さな音を立てながら、エントランスの前につくと、一旦ガラス扉の南京錠を開けてから、ゴミカートの蓋を開けて中に手を入れる。

敬人だ。
用務員に抱えられながら、だらりと手を下ろし、ぐったりとしている。

「行こう」
俺はそう言ったが、明希は「まだ」と首を振る。

「なんでだよ、敬人を助けられるだろ?!」
「今助けても、用務員を捕まえてそれで終わりだよ。立花の兄貴がどうなったのか、夏目恵は今どこにいるのか、知りたくないのか?」
「でも」
「大丈夫、寮に入ってもすぐには殺されないから」
明希は自信ありげにそう言った。

「あっ、入ってく」
あかねが声を低く呟く。

「本当か? まだ大丈夫か?」
俺は焦って、握りしめた手のひらの中が、ずぶずぶに濡れている。

ほんの五分ほどの後、用務員は出てきた。敬人の姿はそこにはない。用務員は再びゴミカートを押して、元来た道を帰っていく。

ざざざざざざ。
やけに葉が擦れる音が耳につく。

用務員の姿が完全に見えなくなると、明希が「行こう」と立ち上がったので、俺は我慢しきれずにエントランスまで全力で走った。

「ちくしょう、やっぱかかってるよな」
しっかりと鎖が巻かれ南京錠がかかっているのを見て、俺は悪態をついた。今は心の声が全部口から出てしまう。自分でもまったく余裕がなくなっているのがわかった。

いつの間にか後ろに立っていた明希が「どいて」と冷たく声をかけてきた。俺が素直に脇へずれると、明希はポケットから何かを取り出して、膝をついた。

南京錠にピンピンを差し込んで、解錠を試みてるのだ。

「現実は漫画じゃねーとかなんとか言うくせに、自分だって漫画みたいなやつやろうとしてるじゃん。それってコツがいるんだよ? そうそう、うまくは」
あかねが言っているそのさなか、「開いたよ」と明希は立ち上がった。

「へ? マジで?」
俺はびっくりした。そんな漫画みたいなことって、本当にできんだ。

「初見では難しいかもしれないけど、ここが南京錠ってわかってたから家で練習した」
明希はそう言ってにやりと笑う。

「大半の凡人は、出来なことを『できない』って騒ぐだけ騒いでなんもしないから、凡人なんだ」

明希は鎖を解いて、静かにガラス扉を開いた。

ブワッとカビ臭い空気が溢れてくる。俺は思わず息を止めたが、これからここに入っていかなくちゃいけないのだから、ずっと止めているわけにはいかない。俺はそっと口をあけ、無駄な抵抗と思いながらも、少しずつカビを吸った。

「……やばい、いよいよだ」
さすがのあかねも少し怯んだように後退りしたものの、意を決して一歩踏み出す。

俺たちはとうとう、寮の中へと入り込んだ。

静かなのに、なぜかざわついているような気がするのは、俺の心が落ち着かないからだろうか。そのエントランスホールは、すっかり時が止まっていた。吹き抜けであっても一つも光が入ってこないからか、圧迫感がすごい。

エントランスの両脇に生徒用の空っぽの下駄箱、そして右手には受付であろうガラス窓がついていた。

「お邪魔しまーす」
あかねが靴を脱ごうとしたから、俺は「履いとけよ」と注意した。あかねはどうも時々間抜けな行動をする。こんな埃だらけの場所を靴下で歩くなんて、気持ち悪いったらない。

「敬人はどこだろう?」
俺はぐるりとホールを見回した。

「用務員が入っていた時間は正味五分。ってことは、おそらく俺が行きたかった場所と一緒だ」
明希は右手の受付を指さした。

俺は、恐る恐るガラス窓越しに中を除いた。

すごく暗い。めちゃくちゃ暗いけど、小さなソファの上に、人が横たわっているように見える。

「いたっ」
俺は勢いよくその『事務室』とプレートがついている部屋へ入った。

「敬人っ」
意図せず胸がつかえて、なぜか涙が込み上げてきた。ソファに駆け寄ると、敬人の肩をぎゅっと掴む。敬人は充血した目を開いていたが、あまり動けないようだった。

「よかっ……た、生きて……た」
ほとんど鳴き声のような俺の声を、敬人はちゃんと聞いているようだった。頬が少し上がって、俺を馬鹿にしたみたいに笑う。

「いつも通り生意気じゃん、よかった」
俺は涙を袖でぬぐって、それから「出よう、ここ」と声をかけた。

「入ったばっかりなのに?」
あかねが不服の声をあげる。

「だって、敬人を病院に連れていかなくちゃ。変な薬を打たれてるかも」
「ちょっと待って」
机と対に置かれているロッカーの方へ、スマホの明かりを持った明希がゆっくりと歩いていき、スチールの引き戸を開いた。

「何が入ってんの?」
好奇心旺盛なあかねが、明希の後ろから覗き込む。明希は人差し指でファイルの背表紙をなぞりつつ、一つのファイルを取り出し、机の上に置いた。

俺も込み上げる好奇心が抑えきれず、「ちょっと待ってて」と敬人に言って、机へ向かった。

そのファイルには、安物のプラスチックの表紙に『平成二十年度 寮生名簿』と、油性ペンで書かれていた。

「パソコンで管理されている可能性もあったけど、やっぱり紙で残してあった。あの用務員は六十代前半ぐらい、パソコンで名簿を管理するという習慣もないだろうから」
明希はそういうと、ファイルをめくった。

「もしかして、原田の名前を探してんのか?」
俺は、下を向き名簿を無言でめくる明希に、尋ねてみた。

「いや、違う」
「じゃあ、誰?」
すると、明希はリストに乗る一人を指さした。

「板塚先生」

「板塚?」
俺は馬鹿みたいに王蟲返しで聞いてしまった。

だって、板塚はこの学校の出身者じゃないだろ?

「え、でも、名前違うよ?」
あかねがそう言ったが、すぐに「でも下の名前が一緒かも」と言い出した。

「『堀川理玖』、堀川は板塚の旧姓だと思う。夏目恵の先輩で、寮生だった、おそらく板塚が夏目を殺し、この寮に隠してる」
「……やだ、嘘でしょ?」
あかねは信じられないというように、目をまんまるくする。

「犯人は用務員じゃねーのか?」
俺は思わず尋ねたが、明希は「用務員は協力者」と答えた。

「板塚は学校内のネットワーク構築を担当しているはずだ。長妻先輩がタダ乗りしてたアクセスポイントは、化学室付近で一番受信状態がよかった。ということはあのあたりにタダ乗りしやすいアクセスポイントを立てて、長妻先輩を誘い込んだ。全ては情報を取るため」

明希は推察を話しているにもかかわらず、自慢げでもなく、悲痛な様子で話すわけでもなく、あざける様子でもなかった。ただ淡々と言葉を発する。

言われると確かに、敬人が消えた廊下の向いには、化学準備室があったことを思い出した。圭人のときと同様、どこかで超常的な力が働いている気になって、あんな近くにある場所を、頭の中で除外していた。

「えーっ」
あかねは混乱して、思考が止まってしまっているようだ。

「思い出せよ、どうして保管庫を部室に使ってんだ?」
「一年前、立花兄の失踪事件を、先生とか生徒にききまくってたら、板塚先生が『保管庫使えば?』って……」

「嘘だろ」
俺は突然怒りが込み上げてきた。お腹の中からカーッと熱く燃え上がる。あかねが考えなしなのは知ってたけれど、わざわざ事件のことを聞きまくって、板塚の術中にハマるなんて。

「待って。じゃあ、夏目恵はどこにいるかも見当ついてんの?」
あかねが信じられないというように、明希の感情のない顔を見つめる。

「たぶん」
「どこだ?」
俺は、あまりにも何も感じていないような明希に、若干の恐怖を感じながら、強い口調で問うた。

「水が垂れる音がしていたと、戸仲先輩言ってたよな?」
「……そう、電話もかかってきた。聞き間違いなんかじゃなかった」
「そこから考えると、水のある場所だ」
「だから、池だよね?」
あかねが勢いよく口を挟む。確かにあの祠前は異様は雰囲気だし、妙な曰くもあって忌み地のように思える。

「ポイントは、水が『垂れる』音、ということ。池で水が垂れる音はするか?」
「……するかもよ?」
あかねが反抗するように言う。

確かに、池では聞かない音だ。あの音は、上から水滴が落ちて、地面に落ちる音。でも土じゃない、もっと硬くて、でもジメジメした……。

「外気との温度差があり、常に冷えて湿気ているところ。おそらく地下室」
明希が言った。

「え、地下室なんて」
そう言ってから、俺は思い出した。圭人とこの建物の外周を回った時、下へ続く階段と鉄製の扉があったことを。そして、その鍵は固く閉められていたことを。

あの奥に、夏目の遺体が?

文字通り、ゾッとした。寒気が背中を通り抜ける。

「部室棟の脇の水飲み場は、おそらくここから水を引いていて、この地下には貯水槽がある。事務室からも行けるんじゃないかと思ったけど」
と言いながら、明希がスマホの心細い光で床を照らし探すと「あった」と声をあげた。

「点検口?」
あかねがしゃがんで、その扉を触る。

明希が取手を掴み、ぐいっと持ち上げると板が外れた。

ひんやりとした空気と共に、明らかに強いカビの匂いが溢れる。この中に夏目がいるってことは、腐った肉体の上に生えたカビの匂いってことなんだよな。

突然、猛烈な吐き気に襲われて、俺は両手で口を覆った。

やばい、スイッチがはいった。気持ち悪い。

「誰がいく?」
明希が言うや否や、「はい!はい!」とあかねが片手をあげた。

「いよいよご対面だもん、行くでしょ」
俺は吐き気を堪えながら、軽蔑の視線を送る。

あいつ、本当におかしい。見つけようとしてんのは、生きてた人間で、俺たちとおんなじ、高校生なのに。

「明希は行く?」
しゃがんでいた明希に、俺は口を抑えながら聞いてみた。

でも、こいつは行かない気がする。絶対、汚れ仕事はしないやつだ。

「行かないよ」
やっぱり少しも感情が振れていない。こんな局面にあって、どうしてそんなに何も感じないでいられるんだろう。

俺は怖くて仕方がないのに。

「……俺がいく」
後ろから、枯れたような小さい声が聞こえた。

「敬人っ」
俺は起き上がっている敬人に走り寄った。

「大丈夫か? なんかされたか? 痛くないか?」
「大袈裟だな」
そう敬人は笑ったが、元気は全くない。
「なんか薬を打たれたと思う。頭がふらふらするけど、だいぶマシになってきた」

そしてスマホを手に立つ明希に向かって、「俺が行った方がいいんじゃないか?」と言った。

「なんで?」
「いろいろ見えるから」
一瞬、すごく冷たい空気が二人の間に流れたような気がして、先程の争いを思い出す。俺の胸がざわざわし出して、二人を交互に見た。

「ねえちょっと、早く行こうってば」
梯子を降りる気まんまんのあかねが、痺れを切らして声をあげる。

明希が口を開きかけた瞬間、俺は反射的に「俺が行く」と言った。だって、ふらふらの敬人をあんな暗くてじめじめしてる場所に行かせるわけにいかない。

明希は「いいよ、じゃあ戸仲先輩」と頷いた。その言い方を聞いて、なんだか俺がそう言い出すのを待っていたような気もして癇に障ったが、今はそんなことで揉めているわけにはいかない。

「じゃ、いこいこ」
あかねはそう言いながら梯子を躊躇なく降りていく。すぐに「うわ、びちゃびちゃ」と床の点検口から声が聞こえてきた。覗き込むと、あかねのスマホの光が、床に溜まる水に光の波をうつしていた。

俺は一度敬人を見て、それからごくんと唾を飲む。そして思い切って梯子に足をかけた。ギイギイとアルミ製の梯子が鳴るのが怖い。上から見ている時は深い穴のように見えたが、降りてみるとそこまでではなかった。

でも冷気がすごい。頬の毛が逆立つほどの冷たさで、この寮に入った時にも寒いと思ったが、そんな比じゃなかった。

地下室に降りると、そこはおよそ十畳ほどのコンクリートに囲まれた場所だった。中央に大きな貯水槽らしきものがあり、そこからパイプがいくつか出ている。このパイプの一つが、部室に続いているってことだ。あのカビ臭さは、ここから運ばれたもの。

注意深く見回したが、コントロールパネルのような小さな壁付のボックスはあるだけで、人一人を隠す場所はないような気がした。

心臓がおかしなことになってきた。そんなつもりもないのに手が震えて、思わず自分のズボンを掴む。

どこにいるんだろう、夏目恵。

俺もスマホを取り出して、二人で部屋の中を隈なく照らし、貯水槽の下をのぞいたりしてみたが、何もない。

「まさか、ここん中?」
俺は薄汚れた貯水槽を見上げた。小さな梯子が脇についていて、中を覗けるようになっている。

この中に夏目がいたとしたら、本当に洒落になんないんだけど。部室の水場を何回使ったと思ってんだよ。突然吐き気が込み上げてきた。やばいマジで。俺、部活終わりに飲んじゃってるけど、水。

「ね、ちょっと待って」
あかねが明かりを持って、貯水槽のちょうど真裏に入っていく。
「ねえねえ、これ。新しい壁が作られてない?」

吐き気を堪えながらあかねの隣に並ぶと、確かにコンクリートにうっすらと境目が見える。明かりを近づけてみると、出っ張っていたコンクリートの支柱分の隙間に、新たに壁を作っているのだ。

あかねと二人で反対方向から貯水槽の後ろに回り込むと、そこにコンクリートの色に同化して見えるグレーの扉がつけられていた。暗闇の中では全然見分けがつかないくらい同化していた。

「部室の倉庫がパーテーションで区切られてたでしょ? それ方式じゃない?」
あかねが指でなぞりながら、取手を探す。

ああもう、倒れそうなくらいの恐怖に支配されている。
怖い、怖い、怖い。

しとん。

音がした。水が垂れる音。
ああ、やばい。あの音だ。

「向こう側から聞こえる」
あかねが扉に耳をつけて、興奮している。

「開けるよ」
俺の心構えも何もできていない状態なのに、あかねは扉についている小さな窪みに指を入れ、容赦無く手前に引っ張った。

すぐ目の前にコンクリートの壁がある。スマホのライトが反射していて、そのコンクリートがぐっしょりと濡れていることがわかった。

しとん。
しとん。
しとん。

規則正しい水が垂れる音。

あかねのライトが、その三十センチほどの幅の空間を照らし出した。細い天井には無数の水滴、ゆっくりとライトが下に動くと、やがてその光の輪の中にずぶ濡れの制服ブレザーが見えた。

「あれって」
あかねが呟く。

圭人の制服じゃないか?

恐怖か怒りかわからないけれど、とにかく自分の中に留めて置けない感情が、ぶわーっと溢れてきた。唇をギュッと噛んで、その痛さで怒鳴りたいのを必死に堪える。

あかねが左肩をその三十センチの隙間にぐいっと入れて、制服を引っ張り出そうとした。

ずる、ずる。
水を含んで重くなった布が、コンクリートの床を擦る音がする。

「出たっ」
足元に濡れた制服が現れた時、俺は絶対にこの狭い隙間を覗きたくなかった。
だって絶対に。

「……みつけた」
あかねが言った。
「おかえりなさい、夏目恵」

その時、天井の点検口から「見つけた?」と明希の声がした。

「うん、いたーっ」
遺体を目の前にしているとは思えないほどの明るい声で、あかねが返事をする。

「そうか」
明希が呟いたのが聞こえたが、俺はなんだか違和感を感じた。なんだろう、初めて感情の波を感じたというか、『がっかりしてる』というか。

なんだよ『がっかり』って。

突然、足元がぐわんと持ち上がるように揺れた。

「えっ」
あかねが驚いてスマホを落とし、俺は思わず扉の向こうの濡れた壁に手をついた。

「地震だ」
「地震よ」
俺とあかねはほぼ同時に叫んだ。頭に『この建物の強度は?』と過ぎる。せっかく夏目恵を見つけたのに、今度は俺たちも一緒に、閉じ込められんのか?

「大きいな」
上から明希の声がする。

「大丈夫?」
敬人の声も聞こえる。

暗闇の中しばらくじっとしていると、やがて揺れは止まったが、ミシッ、ミシッと、周りから聞こえることに気がついた。

慌ててライトを向けると、コンクリートの壁や床に日々が入り、そこから濁った水がすごい勢いで染み出してきている。

「おい、まずい。水が……」
そう言いかけて、止まった。

ここは、再び池になるのかも。

投げ込まれた数多の命が、水を通じて上がってくる想像をしてしまい、いても立っていられない。

「おい、上がれっ!」
あかねに声をかけたが、あかねは「ちょっと待ってよ」とかつての夏目恵を指差す。
「せっかく見つけたのに、また池の中に沈めたら、意味がないじゃん!」
「命が先だろっ」
俺はあかねの腕を掴んで、無理やり貯水槽の裏から引っ張りだし、「上がれ、はしごっ」と怒鳴った。

「えー」
不服そうなあかねだったが、みるみる水位が上がってくるのをみて、「やば」と呟き階段を上がり始めた。でも上がりながら「きた!私、次元超えたんだ! 池が還ってきたんだ!」と、嬉しくて叫んでいる。

もう足首まで水がきてる。このままじゃすぐにこの地下室は水で埋まってしまうだろう。

本当に、池が還ってきてるみたいだ。

あかねが脱出したのを見てから、俺も素早く梯子を登った。ざあーっと水が流れる強い音に追い立てられながら、なんとか俺も管理人室へと這い出ることができた。

「とりあえず、出ようっ」
そう怒鳴ってから、俺はソファでまだ動けないでいる敬人を担ごうとした。

「大丈夫、俺が絶対に助けるから」
そう言った瞬間、俺は気づいた。敬人は全然俺を見ていない。視線はまっすぐに、点検口の脇に立つ明希の方へ向かっている。

明希は、立っていた。水が上がってきているその穴のすぐ脇で、唸りを上げているその渦を見ている。

「神枝っ! 引っ張られるんじゃねーっ!」
敬人が叫んだ。

「え、何?」
あかねは何が起こっているか全然分かってない。いや、俺も全然分かってない。何が起こってる?

「敬人、何が起こってるんだ?」
「……水と一緒に、あの感情も上がってきてる。もう神枝の膝下にまできてる。神枝が『欲しい』って、俺には腕が、手が見えてんだっ」

「マジで?」
俺には何もわからない。でも、地下水が上がってくる圧力みたいなものは感じていた。

「逃げよう、神枝っ」
俺は怒鳴ったが、明希はピクリとも動かない。完全に引っ張られてる。

ごおおおおお。

すごい音が床の下から上がってくる。

「長妻、神枝をぶん殴れっ」
俺は敬人に肩を貸しつつ、立ち上がらせる。

「やったあ」
その瞬間、あかねが思い切り明希の頬を、平手打ちした。

バシンというよりも、バコンというような、凄まじい音。明希が何が起こってるのかわからないというように、目を大きく開けてあかねを見る。

「ぼんくらっ、目ぇ、覚めたか!?」
あかねがまるで江戸っ子のように、思い切り明るい笑顔で叫んだ。

「神枝、逃げんぞ。今の地震で建物がやばい」
叫んだ俺の言葉に返事はしなかったが、やっと明希は理解したように見えた。

敬人は立ち上がれるけど、まだふらふらしている。俺は必死に敬人を支えながら、「ドアあけろっ」と怒鳴ると、明希がイラつくぐらいのゆっくりな速度で、事務室のドアを開いた。

ごおおおお。

足下の水音が近くなってきてる。これは一階が水浸しになるのも時間の問題だ。

夕闇に完全に飲まれた外が、ガラスのエントランスドアから見える。あかねがドアに走りよると、ノブを思い切り引っ張った。

がちゃん。

金属がぶつかり合う音がして、俺は瞬間的に悟った。

外からチェーンをかけなおされている。

あかねが何度もノブを引っ張っても、少しの隙間もできないくらいしっかりとロックされていた。

「やばい、出られない。どうする?」
焦りでちゃんと空気が吸えない気がする。苦しくて仕方がない。カビ臭いのはそのままに、そこに土を掘り返したような匂いが混じってきた。

ごおおおお。
音が近い。

「二階、上がるぞ」
俺は敬人を支えて、左手の階段を目指した。

「神枝、動けっ! 考えろっ。二階でここから脱出できるところ、あんだろ?!」
「……二階?」
ぼんやりと明希が受け答えをする。

あいつ、マジでおかしくなった。

「圭人は」
耳元で、敬人が声を出した。

「二階から飛び降りた。だから」
「そうかっ」
どっかひとつでも、窓の板が緩んでれば、そこから飛び降りれる。坂を上がっていけば、水から逃れられるかもしれないし、学校を囲む塀を乗り越えれば、道路に出て助けを呼べる。

俺たちは、木製の階段を登り始めた。チラッと後ろを確認すると、一応明希もついてきているけど、なんだか危うい。

このまま水に飲み込まれても、いいと思っているんじゃないか?

敬人は俺より小柄だけど、やっぱり重くて、重心が持っていかれる。俺は慎重に一段一段登っていった。

なんとか二階にたどり着く頃、あかねはすでに入れる部屋がないか、いくつかの部屋のノブをがちゃがちゃと引っ張っていた。

「鍵かかってる。かみえだくーん」
鍵開けは明希の役目というように、あかねは叫んだけれど、明希は手伝う気がないらしい。あかねはその顔におよそ似つかわしくない「使えね」という言葉を吐くと、次のドアへと移ろうと歩き出して、ふと立ち止まった。

水の唸り声は、少し遠のいている。その僅かな雑音の中で、確かにはっきりと聞こえた。

キィと、小さく、扉の開く音が。

「開いたね」
あかねが言ったが、流石にその声は緊張していた。俺は何が起こってもすぐに敬人を庇えるように、腰を少し落とす。

板塚がいるのか?
この山奥のトンネルみたいな、真っ暗な廊下のその先に?

すでに暴走中だった心臓が、さらに回転数を増す。

「多分この先に、動画の中の圭人が入った部屋がある。その部屋が開いたんだ」
「……寮の反対側じゃなくて?」
「そう、こっち。さっき夢で見た」

夢で見たなんて非現実的な話なのに、敬人が言うと『そうなのかも』と思ってしまう。

後ろから、水音が聞こえる。とりあえず進むしか道はない。

「よし、行こう」
俺たちは歩き出した。

暗闇の中、あかねの照らすスマホの明かりが頼りだ。強烈なカビの匂いの中、警戒しながらゆっくり歩く。左手には等間隔に扉、右手は室内窓がついている。ちらっと覗いたが、暗闇の中いくつかのテーブルが並んでいるようにも見えた。もしかしたら、寮の食堂なのかもしれない。

「神枝は、まずいのか?」
俺は敬人に聞いてみた。とりあえず明希はついてきているが、明らかに様子がおかしい。

「……まずいと思う」
敬人が言ったのを聞いて、あかねが会話に加わってきた。
「天才は、死にたがってんのよ」
「え?」
俺は思わず振り向いて、ひとり歩く明希を見た。暗闇の中、細いシルエットが溶けてしまいそうで、恐ろしい。金色の髪も、太陽が当たらなければ、漆黒だ。

「死にたがってるっていうよりは」
俺と一緒に振り返っていた敬人が、言いかけて、突然立ち止まった。

「ああ」
敬人から漏れる声は、絶望の響きがする。

「どうした」
「やばい、上がってきた」
敬人は二歩、三歩と、後ろから逃げるように腰を引く。

「感情が……死んだ誰かの感情が、たくさん階段から上ってくる」
「えっ、私、何も見えないけど」
あかねが闇に懸命に目を凝らす。俺にも全然見えないけど、そういえば水の唸り声とは別に、まるで人混みの中にいるような音がしている。

「あれはまずいやつだ。俺たちの身体をが『欲しい』って騒いでる」
敬人が低い声で警告した。

「走ろう」
俺はそう言いかけて、暗闇の中の明希を目にした。あいつは走らない、きっと。

「長妻、敬人を頼む。敬人、なんとか踏ん張れ」
「わかった」
あかねに敬人を預けて、俺はぼーっと突っ立っている明希の腕を掴んだ。

「死にたいんだろうけど、ここじゃねーっ。走れっ」
ぐいっと引っ張ったが、明希はよろめいて膝をつく。

ああもう、でかいと動かせねー。

「立ち上がれ、ほらっ」
明希は動かない。なんだよ、くそっ。

「とりあえず動いてくれ。走れ、マジで。敬人が来てるっていうんだ」
俺がそういうと、初めて明希は顔をあげた。

「……何が?」
「死んだやつの感情がっ」
「……」
「身体が欲しいって騒いでるんだよっ」
「……冗談、かもしれない」
明希がポツリと言ったその言葉に、俺は堪忍袋の緒が切れた。気づいたら、明希の襟元を掴んでいた。

「敬人が嘘つくわけねーだろっ。敬人になんの得があんだよっ。敬人の兄貴は、圭人は、本当に死んでんだっ。それを冗談にしたり、するわけねーだろっ。ふっざけんなっ」

「……」
「立てっ、走れっ。お前はまだ生きてんだろっ」

叫びすぎて喉が痛い。こんなに大きな声を出したことは、生まれて初めてだった。

おぞましいざわめきが、もうすぐそこまで近づいてきている。明希はやっと立ち上がり、歩き出した。

「おーい、早くっ」
開いた扉のところに立って、あかねが手をあげているのが、暗くてもぼんやりと分かった。

俺たちは走った。体育の時間以上に、真剣に走って、正体不明のざわめきに追いつかれないように。そして、開いた扉の間に滑り込み、あかねが素早く扉を閉める。

「鍵はかからないか?」
俺は怒鳴ったが、あかねは「幽霊って鍵は関係ないんじゃない?」と言われて、はたと我に返った。

「感情が壁を通り抜けるかどうかは、わかんない。俺は見たことがない」
俺は敬人のその言葉を信じて、全身を緊張させて扉を見つめる。暗闇の中、四人で身動き一つしなかった。

あのざわめきが徐々に近づいてきて、扉の外で歩みを止めたような気配がした。のっぺりとしたなんの装飾もない木の板の向こうで、ざわざわと動いているような気がする。

だくだくに汗をかきながら、俺はごくんと唾を飲んだ。もし入ってきたら、俺たちはどうなるんだろうか。

長くて、でもきっと短い時間の後、突然扉の向こうが静かになった。さっきまで渋谷の雑踏の中にいたのに、その行き交う人たちが突然消えてしまったかのように。

どくどくどく。
自分の脈拍が一番うるさい。

「いなくなった?」
敬人が言った。

「わかんないけど、静かになったね」
あかねが興奮して言った。

ほっとして我に帰ると、自分たちが唯一扉の開いた部屋にいることを思い出した。

突然ゾワっと鳥肌が立って、中を見回す。自分のスマホであたりを照らすと、入って左側にベッド、正面に窓、右側に机がある、六畳程度の部屋だということがわかった。

長年放っておかれた部屋の割に、埃が少なく、人の気配があるような気がするのはどうしてだろう。あの夏目恵の実家みたいに、人が住まなくなった空っぽ感がない。

そっとベッドに近寄って布団に触ると、こんなにも湿気とカビの多い場所にもかかわらず、清潔でさらっとしている気がする。

「ここにSwitchがある」
敬人が机の上のゲーム機を持ち上げて見せた。

この寮があったときに、Switchなんかあっただろうか? いや、絶対にない。あの不動産屋が、スマホだってなかったって言ってたじゃん。

「ねえ」
あかねが厳かな面持ちで言う。

「池が復活したんだわ。今私たち、あの世とこの世の境目にいる」
「……やめろ、怖いよ」
俺は思わずそう言った。

だって本当にそうだったら、怖すぎる。

「そもそも」
俺は、あかねを黙らせたくて口を開く。

「犯人は板塚だって分かったじゃないか。敬人だって神隠しにあったわけじゃなくて、用務員がゴミカートに入れて運んできた。明希の言う通り、人間のやってることなんだよ。だろ? 神枝」

俺は振り返ったが、明希は何も言わない。部屋の片隅に立って、ゆっくりと部屋の中を観察しているようだった。

さっきほど抜け殻じゃないけど、でも元には戻ってない。
もうあいつは頼れないだろうな。

「脱出することを考えよう」
俺は冷静さを装い言う。スマホを見たが、電波はなぜか入らない。

「窓」
俺はサッシの窓を引いて開けてみたが、しっかりと板が打ち付けてある。よく見るとそのうち三枚の板は新しく、釘にサビもついてなかった。

ここから圭人は飛び降りたんだろうな。

「椅子とか叩きつけたら、板が壊れたりしないかな」
俺はわざわざ口に出してみる。何かをし続けていないと、恐怖で気が狂いそうだ。椅子に触ると、やっぱりこれにもほこりは積もってない。

「ここは夏目恵の部屋かもしれない」
敬人が言った。

「……まさか、いるのか? ここに?」
恐る恐る尋ねてみたけれど、敬人は首を振ったので、めちゃくちゃホッとした。貯水槽裏の、かつて人間だったものの塊が頭をよぎる。あの夏目恵がここにいることを想像したら、正気を失いそうになる。

「ああ、外が見てみたいな。マジで池になってんじゃないかな? 私たち以外の生きてる人は、いなかったりして」
あかねはまだ、そんなことを言い続けている。あいつはビビるってこと、ないんだろうか?

『ありがとう、正樹』
突然、耳元で声がした。

「え?」
俺は咄嗟に振り返ったが、そこには誰もいない。もちろんだ、だってこの声は圭人の……。

『敬人を守って』
確かに声がした。

圭人だ。
圭人、圭人、圭人。

涙が込み上げ、二人で過ごした日々が一瞬のうちに脳内に流れる。

「敬人、圭人がいるっ」
俺は思わず叫んだ。

「え?」
敬人が驚いて目をキョロキョロさせるから、俺は声の聞こえた方を必死で指さした。

「ここ、ここにいるっ」
「俺には見えない! そこにはいないよ!」
期待に反して、敬人は強く首を降って、俺がおかしくなったみたいな顔をする。

「『敬人を守れ』って言ってる。絶対に圭人だっ」
なんでみんな訳わかんないみたいな顔してんだ。声が聞こえるだろ?

あかねは心底嬉しそうに「やっぱり、今、私たちカーテンの裏側にいるのよ」と言った。明希は目を凝らして俺の指差す場所を見ているが、何も話さない。

『くる』
圭人が言った。『気をつけて』

「来るって何が?」
俺は声のする方を振り返り尋ねたその直後、キィと扉が開く音がした。

光を向けると、オレンジ色のぼんやりとした輪の中で、扉がゆっくりと開いていく。黒い隙間が徐々に大きくなり、その向こうの不自然な静寂が入り込んできた。

「……先生」
あかねが呟く。

その黒い隙間から姿を表したのは、やはり、黒いフードを被った板塚だった。メガネに光が反射して、表情がよくわからない。

湿ったカビの匂いが、改めて鼻の奥を刺激する。胃の中で、吐き気と怒りがぐるぐると混ぜられて、今にも爆発しそうになった。

板塚だったんだ、やっぱり。

「恵、抑えてて」
板塚が言った言葉を、俺はよく理解できなかった。

今、誰に話しかけた?

突然、あかねがドスンと大きな音を立てて、膝をついた。四つん這いになって、驚きのあまりさらに大きくなった瞳で、自分を押さえつける『何か』を見ようと、必死に後ろを振り返る。

「え? どういうこと?」
あかねの声に、はじめて『恐怖』が混じった。

板塚はあかねに……いや、あかねを押さえつける『何か』に視線をやると、「うん、ごめん、もうちょっとだから」と言う。それからまっすぐに、机の脇に立っていた敬人へ向かった。

『あいつが俺を殺したんだ』
圭人が言った。

『あいつから、敬人を守ってくれ。殺して』

瞬間、俺は床を蹴り、板塚に飛びかかった。スマホが床に転がり、天井に真っ赤な光を投げる。轟々と耳鳴りがして、喉が潰れるほど、大声で叫んだ。

こいつが殺した!
俺の幼馴染を、友達を、大切な人をっ。

ドタンッと大きな音を立てて、俺は板塚を引き倒し、馬乗りになった。迷いなく板塚の首に両手がかかる。意外と細いその首に、指が深く食い込むほど力強く絞った。

絞って、絞って、両手も、板塚の首も真っ赤になるほど強く絞ったが、変な息が板塚の口から漏れるのが聞こえた、その瞬間。

あ、こいつ、死ぬんだ。
俺が殺す。

一瞬手が緩んだのを自覚したその刹那、左脇腹に燃やされたような熱さを感じた。

「正樹っー」
敬人が叫ぶ声が聞こえた。

腕から急激に力が抜け、熱さは耐えようのない痛みに変わった。脇腹が脈打ち咄嗟に押さえようとした俺の左手が、ぬるぬると暖かいものに包まれる。

倒れ込み、ガツンと激しく肩を打ちつけた。

俺、死ぬ。

ごおおお。
すごい音を立てて、体内から血液が流れ出ていくのがわかる。
でもそこには、不思議な平穏があった。
歪む天井、むせかえる鉄の匂い。

ごめん、圭人。
最後まで敬人を守れなかった。

ひとつ咳をすると、口の中に血があふれる。

『ありがとう、よくやってくれたよ』
圭人の声がする。

ごめんな、ごめんな、ごめんな。

「にげ、ろ……よ、しと」
俺は最後の力を振り絞り、そう声に出した。

敬人に聞こえていれば、いいのだけれど。

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