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ビハインドカーテン(31)

第三章(6)

地鳴りとともに、再び地面が大きく揺れた。そして、ピシッと何かが割れる音がして、突然天井が崩れ落ちてきた。

「うわっ」
敬人は水の中に手をついて、後退りをした。

ガラスと一緒に、月の光が落ちてくる。ガラスがゆっくりとキラキラと反射して、ここはやはり異世界なんじゃないかと一瞬考えた。

気づくと隣に明希がいて、俺の手を引っ張り立ち上がらせる。

「大丈夫か?」
「うん、お前は?」
明希はそれには答えず、板塚に目をやった。

光と闇の境目に立ち、板塚は何か話していた。こちらの存在をすっかり忘れてしまったかのように見える。

「……恵と話してるのかな」
「見える?」
「いや、何も」
俺は首を振った。

すぐ、また大きな揺れが起きる。立っているのがやっとと言うような、大きな揺れ。至るところから建物がひび割れるような、軋みが聞こえている。

「やばい。これ助かっても、ここら辺は被害が大きいんじゃないかな」
次の瞬間、何かが落ちるような、大きな音がしたあと、足元の水が勢いよく流れ始めた。

「みて、床が」
明希が指さしたのは、板塚の奥に見える床だった。大きな穴が空いて、そこに水が流れ込んでいるのだ。

「やばい、逃げよう。池に吸い込まれる」
俺が言うと、左手の扉から髪がぐっしょりと濡れたあかねが、這い出てきた。

「先輩っ」
叫んでも、あかねはこちらをチラリとも見ない。月明かりと板塚、そして大きな穴を、もともと大きな目をさらに大きくして見つめている。口元は興奮で笑顔だ。

「うわ、気味悪」
明希がボソッと呟いた。

「ねえ、池が終わるよ」
隣で床に座り込んでいる、あかねが言った。「水がまた引いていく」

そう言われると確かに、足元に流れる水は勢いは強いが水位は下がってきている。

黒い穴は、轟々と音を立てて、渦を巻いている。池の人々は、引きずり込まれるように、足元から長く長く感情が引き伸ばされている。まるでこちらの世界にしがみつきたいように、手を伸ばし叫びながら穴へと流れ込んでいく。

「板塚が」
明希の声で板塚に視線を戻すと、俺は驚いた。

板塚は泣きながら微笑んでいたが、纏う感情の色が本当に美しかったのだ。キラキラと白く、暖かな色。生まれたばかりの赤ちゃんが、母親に抱かれるときに見える色。

「ごめんな、父さん」
「ありがとう」

そう言うと、板塚は後ろに倒れた。

「先生ーっ」
俺は思わず叫んだ。

あっという間に、真っ黒な穴に吸い込まれ、あの美しい色は瞬く間に消えてなくなった。

ごおおおおお。
激流が足元から穴へと絶え間なく流れ込む。

「……やばい」
あかねが放心したように呟いた。

明希も俺も、ただただ渦を見つめるだけしかできない。

「あっ」
あかねが声を上げた。

いつの間にか穴の縁に、丸い人影が立っていた。

「おじさんっ、ダメだよっ」
あかねが叫んだ。

用務員は刺された部分を真っ赤に濡らしながら、よたよたと穴へと近づいていく。

「ダメだって」
俺が駆け出そうとするのを、明希が「危ない」と腕を掴んで止めた。

暗がりで用務員はこちらを向き、深く深く頭を下げた。

「本当にどうもすみませんでした」
「ダメだよ、死んだらっ」
俺は叫んだ。

すると用務員は、穏やかに優しく微笑んだ。

「あの子には、わたしがいてやらないと」

そして、穴の中へと消えていった。

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