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ビハインドカーテン(24)

第三章(1)

身体のそこかしこが痛いし、あまりにもカビ臭くて苦しい。

俺はどうなった?

圭人が恐る恐る目を開けると、じめじめとした暗闇の中にいることがわかった。やっとのことで体を起こし、中を見回す。

目を凝らすと、事務室のような机とロッカー、そして自分が寝かされていたソファのみの、小さな部屋だとわかった。

口がカラカラに乾いて、吐きそうだ。

ここはどこだろう?
でもこのカビの匂いって。

ヒヤッとしたものが、背中を走った。俺はゆっくりと立ち上がって、自分が置かれているこの状況を必死に整理しようとした。

記憶が残ってるのは、部室の扉の前まで。正樹が鍵を取り出すのを眺めながら、立っていた気がする。

そう、気がする。そして突然、何かに腕を強く引っ張られて、その後は……。

視界が暗転して記憶にまったくない。

「ここから出なくちゃ」
そう一歩を踏み出して、なんだかおかしいと気がついた。肩のあたりがやたらと動きづいらいし、膝だって曲がりにくい。

これ、俺の制服じゃないんじゃないか?

右手でポケットに手を入れると、違和感は確信に変わる。

そうだ、これは俺の制服じゃない。
おそらく夏目恵のもの。失踪時着ていたものか?

暗闇の中、思わず後退りした。恐怖が体をさらに萎縮させる。この暗闇の、その中に夏目恵がいる。

無意識に左ポケットに手を入れると、幸運なことに俺のスマホが入ってる。急いでライトをつけて、その事務室に弱々しい光を放った。ライトをつけると、机の前に小さなガラスの窓口が付いていることが分かったが、その向こうは完全な暗闇だ。

「電話」
圭人は親に電話をしようとしたが、電波が入っていない。ダメ元でかけてみたが、やはり通じなかった。

「くそ、なんでだよ」
圭人は悪態をついてから、意を決する。絶対にここから出なくちゃいけないんだ。

ガラスの窓口の右隣に、のっぺりとした扉があったので、一呼吸してからそっとそのノブを回して押し開いた。

大きな空間だった。天井は高く吹き抜けていて、どこからかうっすらと明かりが入り込んでいるのか、事務室よりも視界がきいた。

悪い予感は当たってる。この場所は、外から一度のぞいて記憶していた。

寮のエントランスホールだ。

入り口を見ると、月明かりらしき光がほんのりとガラス扉から入り込んでいる。圭人は痛む身体をなんとか動かして、ガラス扉に走りより、思い切り引っ張ってみたがびくともしなかった。

あの夢と一緒のことが起きてる。俺はここから出られないんだ。

一瞬で絶望が込み上げて、圭人はその場にしゃがみ込んだ。カビが、悪意が、欲望が、圭人を捉えて蝕み始めている。

涙が込み上げてきた。

これから失うものが、脳裏を駆け巡る。両親、敬人、正樹、なんでもない毎日。朝起きて、顔を洗ってご飯を食べて、学校に行って勉強する。放課後は部活、帰り際に正樹とコンビニに寄ってチキンを食べたり、部屋でくだらない話をしたり。

春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、一年がめぐる。

でも俺はもう、ここで死ぬんだ。
いや、もしかしたらもう、死んでいるのかもしれない。
魂だけこの場所に囚われて、彷徨ってるってこともある。

心底ゾッとした。

ああでも。

圭人はふと考えた。

敬人なら、俺の姿が見えるよな?

敬人を思う。外界を遮断して、繊細さを守っている。ベッドの上で膝をたて、毛布を頭からすっぽりかぶっている敬人が暗闇の中にぼんやり浮かぶ。まだ幼く刺々しいが、猫が甘えるように、家族には少しの甘えを見せてくれる。

敬人なら俺を助けてくれるかもしれない、でも。

圭人は自分の頬を触った。

夏目恵が、顔が似ている俺を欲しがるなら、敬人もきっと欲しがるだろう。
それはダメだ。絶対にダメだ。

俺は自分の力で、ここから逃げないと。

圭人は唇を噛み、エントランスホールを見上げた。幸いスマホの充電はまだある。もしかしたらこの建物の中に、電波の入るところがあるかもしれないし、逃げ出す場所があるかもしれない。

まだきっと、俺は生きてる。

足を見ると、靴がない。じめっとした板張りが、足の裏にピッタリとくっついていた。

動こう、すぐに。

スマホの明かりで行く道を照らしながら、圭人はそっと左手の階段を上がり始めた。寮にしては豪奢な作りのように思う。床も階段もすべて木製、でもそれがあだになってか、じっとりと腐りかけているようにも思う。

二階に上がると、真っ直ぐな廊下、突き当たりは見えないほどに暗い。左手には等間隔に扉があり、右手は室内窓がついている。恐る恐るその窓を覗き込むと、下にはおよそ十ほどの角テーブルがあり、向こう側に配膳のカウンターが見て取れた。食堂だ。

圭人はもう一度電波を確認してみたが、やはりアンテナが立ってない。たいして山奥でもないだろうに、どうして電波が来てないんだろう。何か人ならざる力が働いてるのかもしれないと思うと、怖くてたまらない。理解できないことが起きている。

スマホの明かりを右左上下と忙しなく動かして、すみずみにまで光を行き渡らせた。夏目がいつ出てきて俺の手を引っ張るかわからない。いや、見えてないだけで、もう俺の隣に立っているのかも。

圭人は素早く後ろを振り返り、その闇に追いつかれないように走り出したいのを必死に押し殺して、ゆっくりと歩いた。

変に体力を使うのも、パニックになるのもよくない。
とにかく冷静に動くんだ。

廊下の先は暗闇でまだまだあるように思ったけれど、体感的にはそろそろ建物の中央より後部にきている。右手の内窓は途絶え、壁に囲まれ圧迫感が増す。

圭人は再びスマホを見たが、すぐに「ああ、くそ。なんで入んないんだ」と悪態をついた。一階よりも二階の方が絶対に電波が入りやすいのに。

ふと、一筋の明かりが視界に入って驚いた。さっきまでは暗闇だった。絶対にどこにも電気なんてついてなかった。でも今左手の扉のひとつが少し開き、細いオレンジ色の光が廊下に筋を作っている。

どっどっどっ。
急激に拍数が上がり、さらなる汗が背中を伝った。

誰かいるのか、用務員さんか、学校関係者か。
それとも、ずいぶん昔に消えた夏目恵か。

圭人はゆっくりと湿った床板を踏みながら、その扉のノブへと手を伸ばした。

―-

ぼんやりとした色が目の中に入ってきた。まるで夜のような深いブルーだ。身体中が痛くて、しかも自分の身体が変な方向へ捻れているように感じた。身を動かそうと思ったが、思うように動かない。意識が四肢に伝わっていないように感じた。

朦朧とした中で、何か荷車のようなものに乗せられているような感覚があった。等間隔でガタンガタンと大きく揺れるので、もしかしたら石畳の上を通っているのかも知れなかった。

今のは夢だったのか、俺が圭人だった気がする。送られてきたあの動画の通り、寮の中で彷徨っていた。俺に助けを求めたかったけれど、圭人は自力で脱出しようとしていた。負けるつもりなんかなかったんだ。

いつもの圭人だった。

頭はガンガンするし、気を抜くと意識が飛んでしまいそうになったが、俺は現実にへばりついた。ここで意識を失ったら絶対ダメだ。戦うんだ。

やがて石畳から土の上に移動したようだった。腰の下に響く感触が柔らかい。必死に目を開けていようとしているが、荷車が止まった瞬間反射的に目を閉じた。

ガチャガチャと金属のような音がしてから、すぐに頭上のブルーカバーが取り払われ、誰かの手が敬人の脇と足の下に手を入れた。

「よいしょっと」
その声を聞いて、俺はそれが誰だか分かった。

用務員はヨタヨタとしながらも、俺を抱え上げる。

逃げなくちゃダメなのに、身体が言うことを聞かない。俺をどうするつもりなんだ、そう考えた直後に、用務員が祠に猫の死体を置いていたことを思い出した。

贄だ。

殺される。せめて助けの声をあげないと。でも意識とは裏腹に、まったく声が出てこない。

つんとしたカビの匂いとともに、空気が突然に冷えたので、寮の中に入ったことが分かった。

どうしたらいい?
焦りだけが募る。

やがて優しく、柔らかい場所に降ろされた。身体は動かないけれど、そこで必死に目を開けると、用務員のダブついた頬が目に入った。

用務員は少しびっくりしたように目を見開いたが、それからすぐに「ああ、効きが悪かったか」と言う。そして腕時計を見て、「まあ、でもこれくらいがいい」とつぶやいた。

大きなため息が、用務員から吐き出された。疲れ果てているというように、小さく丸い肩を落とす。乾くてゴワゴワしていそうな白髪混じりの髪が、汗で額にへばりついているのが見えた。

くそっ。
こいつが犯人だったんだ。
圭人をさらったのもこいつ。

大声で喚きながら、用務員を殴り倒したいけれど、意に反して一つも身体がいうことを聞かない。代わりに唇から哀れな息が溢れていく。

用務員はしばらくじっと俺を見つめて、それから頭を垂れて「ごめんな」と言った。暗闇で色は鮮やかさを失っていたけれど、確かに申し訳ないというグレーの感情が溢れている。

用務員はゆっくりと立ち上がると、俺の方を振り返らずなんの装飾もない扉から出ていく。

すぐには殺さないんだ。

扉のすぐ外でガチャガチャと物音がした後、静寂と暗闇が俺を包んだ。俺の短く呼吸する音と、強烈なカビの匂いだけが残る。

俺は意識まで暗闇に落ちぬよう、必死に両目を開き続けた。

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