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ビハインドカーテン(30)

第三章(〇)

「大丈夫? 理玖」
恵が板塚の腕を取った。

「助かった、ありがとう」
俺はぐしゃぐしゃに濡れた顔を腕で拭い、暗闇の中目を凝らして、恵に吹っ飛ばされた二人を確認した。

「身体は無事みたいだ。チャンスはある」
俺は背の高い金髪の方を一瞥した。

「あいつが邪魔だ。あいつをまずどうにかしないと」
「なあ」
その恵の声が震えていたのに、俺は気がついた。

「何?」
「……もう、やめよ」
恵は泣くのを堪えるように、顔をくしゃくしゃにしている。

「何、言ってるんだよ。後少しだから」
俺は胸が不安で痙攣するのを誤魔化すように、明るい声で言った。

「だってさ」
「もう少しだから、俺が助けるから」
俺はスウェットの腕をグッと掴んで、目を見て説得する。声が懇願するみたいに聞こえるのは、ただただ必死だからだ。

恵の瞳が、まるで池の水面のように揺らいでいる。

「ダメだよ、もう殺しちゃ」
恵が言った。

一瞬息が詰まったが、すぐに「俺は恵を助けるためなら、なんだってするんだ」と言い返した。

「知ってるんだよ」
「……何を?」
正体不明の後ろめたさが、ブワッと肌を撫であげる。

「俺は死んでる」
恵が言った。

「……いや、お前は」
俺はなんと言葉を続けたらいいかわからず、口をつぐんだ。

「あいつの身体をもらったって、生き返るわけじゃない」
「そんなことは」

恵は涙を堪えながら、やっとのことで笑顔を作る。

「俺さあ、知ってたんだ。ずっと知ってたんだよ」
「……」
「でもお前と離れんのが、すごく、嫌で」

恵は微笑みながら、涙を一筋流す。

「ごめんな、早く、理玖を解放してやらなきゃいけなかったんだけど」
「違う、違うよ、違う」
俺は苦しくて、激しく首を振った。

初夏というにはまだ早い、若葉の息吹が聞こえそうな、あの季節。生命が謳い、俺たちが笑い、全てを手にしていたあの日々。

情景が脳裏に浮かぶ。

「俺が……俺が悪いんだ」

あの日、恵を突き飛ばした俺の手が見える。
暗い穴へ落ちていく、恵の髪が揺れたのが見える。

そんなつもり、全然なかったのに。
恵を恨んだことも憎んだことも、一度もなかったのに。

「俺が」
言いかける俺に、恵は頷いた。
「知ってるよ」

俺の胸の奥から、嗚咽が上がってきた。

「ごめん、俺」
「わかってる、いいって。だってさ」

恵も涙を我慢できずに、肩が震える。
「だってさ、それもいいって思ったんだ。あの特別な一週間が永遠になるなら」

恵が俺の手を取った。
「ありがとう、一緒にいてくれて」

突然、足の下から湧き上がるような、大きな揺れがした。食堂に捨てられたテーブルや椅子たちが、お互いにぶつかって大きな音をたて、同時に天井からガシャンッと音がしたと思うと、暗闇だったこの建物に突然白い光がさした。

黒い水が足元で渦を作り、それが壊れた天窓からの月明かりで、白く青くさざめいている。月明かりのせいで、恵の半身は溶けて見えなくなっていた。

「恵、やだよ」
俺は、まだ見える片方の腕を掴んだ。

「俺を置いていかないで」
「……」
「ここには、何もないんだ。恵以外は、何もなかった」
「理玖は気づいてなかっただけだよ。ちゃんとそばに大切に思ってくれる人がいたって」
「……でも俺は」

俺は恵を抱きしめた。

「俺は、恵がいれば他には何もいらないんだ。一緒にいかせて」
恵は黙っている。

「ずっと考えてた。それが一番しっくりくるんだ」
「……だめだよ」
「いやだ、一緒にいたいよ」
恵の腕が、俺の背中に回った。俺は、泣きながら震えているその肩に顎を乗せ、今まで感じたことのないような幸福を感じていた。

今俺は、声を上げて泣いているけれど、きっとこれが一番欲しかった。

再びの、大きな揺れ。
振動。

後ろですごく大きな音がして、足元の水が勢いよく流れ出した。月が水に乗って、キラキラと美しく光っている。

「ごめんな、父さん」
俺は言った。

「ありがとう」

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