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ビハインドカーテン(21)

第二章(13)

「これからの方針を考えます」
いやに元気よく、あかねが宣言した。

日曜日を挟んで、翌月曜日の放課後。化学保管室のカーテンを閉め切ると、むわっとする。そろそろブレザーを着るのが暑くなってきた。太陽はあっという間にてっぺんまで登って、地面をジリジリと焦がしていく。まだ四月の終わりっていうだけで、こんなにも夏っぽい日差しを感じるなんて、変な感じ。

「で?」
あかねが顎をくいっと動かして、黙って座っている明希を促した。結局方針を打ち出すのは明希ってことなんだろうか?

矛先が向けられた明希はうっすら笑って、「で?」とこちらへ促してくる。

「なんだよ」
「だから、いろいろ見て回った結果は?」
明希に言われて、俺は口をキュッと結んだ。

自分が見聞きしたことを話した方がいいのか迷っている。所詮、自分だけの感覚だから、信じるに足る情報かどうか自信がない。でも。

ちらっと正樹の方を見ると、熱を持った瞳でこちらを見ている。あの日、正樹の悲しみが部屋を埋めたあの日を思い出した。心臓のところが、ざわざわと波打つ。

俺は、このためにこの学校に来たんだ。

「悪意の源は、やっぱり寮。それも祠あたりから地中を伝ってきてる。池は埋め立てられてるけれど、まだあそこに池があるみたいな感じだ。次の生贄を待ってる」
「やっぱりっ」
あかねがパチンと手を叩いた。

「夏目恵がどこにいるかは、正直わからなかったけれど、実家に夏目の感情は残っていなかった。母親の感情はとどまってるように見えたから、夏目も圭人と同様、池に囚われていて、家に帰れないのかもしれない」

「お母さんの幽霊、見たの?」
あかねがウキウキが止まらないと言うように、ガタガタとパイプ椅子をゆらす。

「いや、そうじゃないかっていう感情があっただけで」
「なんだあ」
あかねが不満げに口を尖らせる。
「別に、幽霊としゃべったりできるわけじゃないもんね、弟」

正樹が一瞬不快を感じたが、すぐに諦めた。もうあかねの言動をなんとかするのは、不可能だと学んだんだろう。

「原田からは、なんも感じない。吉崎はいけすかないけど、俺の肉体が欲しいなんて、ひとっつも思ってない。美術の三島せんせは、無関係だと思う」
三島は、ちっちゃな女の子みたいな先生だ。

「なんでよ?」
「だって、生徒のことなんか、全然みちゃいないよ。授業中でも空見たり、雲見たり、虫見たりして、喜んでるんだ。根っからの芸術家かもしんない」
「なるほどお」
あかねは腕を組んで、うんうんと頷いた。

「あの不動産屋は?」
「なんも」
「でもあの人、夏目恵と同学年だよ」
そう言われて俺は、あの雨に打たれた後の紙みたいな、照井っていう不動産屋を思い返す。そして首を振った。

「やっぱ、関係ないと思うけど」
「そっかー」
あかねはがっかりして、長机にどしんと肘をついた。

「用務員のおじさんは?」
正樹が尋ねた。

「あの人、猫の死体を祠に置いてたし、何より夏目の顔を知っている。それに謝ってるって言ってたよな。次はあの人に話を聞くか」
「秘密があるのに、正直に喋るかな?」
あかねが、奇跡的に真っ当なことを言う。

「あの池を浄化しちゃうってのはどう?」
「浄化って?」
俺が尋ねると、あかねは「もしかして、弟は除霊できたりして?」と真顔で聞いてくるので、俺は首を振った。

「やっぱな」
あかねはあからさまにがっかりしながらも、まだワクワクしている様子で話を続ける。

「池は埋められたけれど、まだ生贄を欲しがってる。想像するに、用務員のおじさんが長い間生贄を与え続けていた。犬とか猫とかね」
あかねは少し得意げに話を続ける。

「与えられていた命を取り上げたら、池は力を失うと思うの」
あかねが言った。

「どうすんの?」
正樹が眉を顰め尋ねた。

「見つからなかった数多の遺体は、違う次元のあの場所にある。それを掘り返すの。それが浄化につながるんじゃないかって思って」
「だからどうやってさ」
正樹がとうとうイライラして声を荒げた。

すると、あかねが勢いよく立ち上がった。
「調べたのよ、異世界へ行く方法を!」

俺はその勢いに呆気に取られる。するとすぐ隣で、くくっと堪えるような笑い声がした。横を見ると、両膝に肘をついて、顔の前でぎゅっと両手を握りしめている明希がいた。グレーのジャケットの背中が、まるで泣いているように震えているが、その声は笑っていた。

「はあ、くだらね」
吐息のような、悪態だった。誰かを蹴落とすためでも、自分が優位に立つためでもない、本当の悪態だ。

「ああ、また」
あかねががっかりというように、髪をかきあげる。二人は両極端にいる。感情も、思考も。

「人の話をバカにするのも、いい加減にしなよ。見えないものは『ない』とするならば、見えるものだって『ある』とは限らないのよ」

明希はゆっくりと顔を上げ、静かにあかねに視線を合わせる。

俺はヒヤッとした。これはたわいもないやり取りの続きではないのに、あかねは気づいていない、明希の穴みたいな感情が、さらに広がっていることを。

「死んだこともないくせに、死んだ後の世界を否定なんてできないでしょ?」
「あるよ」
明希が言った。

一瞬、あかねも正樹も理解できずに、ぽかんとした顔をしたけれど、俺には明希の胸の奥から徐々に広がる真っ暗な穴に後退りし始めていた。冷たくて、何もない暗闇。

明希の三白眼が、暗闇の中で白く光るような錯覚を覚える。

「あるよ、死んだこと」
明希はもう一度ゆっくりと、理解を促すように丁寧に言った。

「何? どういうこと」
あかねがやっと異変に気づいて、口調が慎重になる。正樹が明希に何か声をかけようとしたが、萎縮して声は出てこない。

「文字通り、死んだ。心臓が止まったんだ」
声音が爽やかな優等生のようなのが、さらに不安を煽ってくる。

「幽体離脱や、三途の川なんて、馬鹿げた話だよ。残る人たちが創り上げた希望ってだけだ。教えてやろうか、死ぬってことは」
明希がゆっくりと俺を見た。

「死ぬってことは、『なにもない』ってことだ。電源を切るみたいに、突然落ちる」
今、明希は、俺を嘲笑ってる。

「思考も感情も何もない。お前が見てるのは、お前が『見たいもの』に過ぎないんだよ。言っただろ、潜在意識に刷り込めって。すべては脳が見せてる、お前だけの幻だ」

俺の皮膚が、明希の暗闇に触れるのを恐れて、逆立っていた。

「お前は、兄貴が自分に会いに来てくれるって信じてるんだよな。美しいと思うよ。本当に綺麗な願いだ。でもな」
明希の白い手が伸びて、泡立つ肌を慰めるように、俺の腕を掴んだ。その優雅な動作とは対照的に、込められた力は肌に強く皺が寄るほど。俺の背中につぅっと一筋の汗が流れた。

「兄貴はもうどこにもいないよ。兄貴は死んだ」
明希が残念だとでも言うような顔をする。
「なにもない」

俺は手を勢いよく振り払って、立ち上がった。がしゃんとパイプ椅子が横倒しになる。ひゅっと息を吸い込むと、不快な化学薬品の味がした。

どどどどどっと、耳の奥まで心臓が鳴り響いて、この感情がなんなのかよくわからなかった。でも泣きたい。大声で泣きたかった。

俺は明希から逃げて、咄嗟にドアを開いて飛び出した。ぐわんぐわんと脳みそが振動していて、視界がぐらぐら揺れる。

圭人は死んだ。
死んだ。
死んだ。
圭人は無になった。

引き戸を力任せに開き、廊下へと飛び出したその瞬間、何かが強く俺の足首を引っ張った。

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